『源氏物語』は、紫式部の想像力と情熱の結晶です。紫式部は、自分の恋愛経験や周囲の人々の姿をもとに、光源氏の恋愛を描いたと言われています。いとうるわしき晩婚の才女である紫式部の恋愛事情はどうだったのか?文献を調べて推察してみましたので最後までご覧ください。
紫式部の青春時代の初体験と朝顔の間者とは?
父・為時の英才教育で幼年期より勉学に親しんだ紫式部は、どのような青春時代を過ごしたのでしょうか?残念ながら自著「紫式部日記」には若き日に記述が少ないので彼女の青春時代を垣間見ることは出来ません。
しかし、そのヒントのなる可能性があるのが自著「私家集・紫式部集」です。現存するのは下記に引用した藤原の定家が複写したとされる断簡のみです。
紫式部は、晩年に自詠の和歌を撰び、私家集『紫式部集』を遺しました。少女時代に始まり、夫・藤原宣孝(のぶたか)との恋愛や死別、また宮仕え時代など、ほぼ全生涯にわたる和歌が厳選して収められています。本品は、藤原定家(さだいえ/1162~1241)筆と伝えられる最古写本の断簡です。
引用元:徳川美術館
その私家集の中に式部が20歳代の頃と思われる興味深いエピソードが残っています。当時、紫式部は姉と弟と父親の4人暮らしでした。ある日の夜半、自宅に方間違えのために訪れた旅行者の男性を不憫に思って一夜の宿を提供しました。
<方間違え(かたちがえ)とは> 目的地の方角が悪いと判断された場合、前の夜に別の方向にある知人宅などに宿泊し、翌朝に改めて目的地に向かうことで不運災害を遠ざけるその当時の風習です。
その夜、紫式部は旅行者(家族の知人または親戚と推定される)の男性とまさかの秘〇の情事を行った可能性があります。現在でいう夜這いに近い行為であった可能性が推測されます。
まずは、問題の詩歌をご覧ください。
(原文)方間違えへわたりたる人の なまおぼおぼしきことありて 帰りにけるにつきとめて朝顔の花をやるとで
(翻訳)方間違えで我家に宿泊者が、深夜に不可解な行動をとり、翌朝に何食わぬ顔で旅路を急ぐので、朝顔の花を添えて和歌を贈りました。
(原文)おぼつかな それからあらぬか 明けくれの それおぼれする 朝顔の花
(翻訳)なんのこと?はっきりしません。そうだったか?そうでなかったのか?朝の暗いうちに、ぼんやりと咲いている朝顔のように
(原文)返し 手を見分けぬにやありけむ
(翻訳)返歌の筆跡が、私か姉か見分けられなかったようですね?
(原文)いつぞれと色分くほどに 朝顔のあるかきかに なるぞわびしき
(翻訳)どちらからの手紙かを見分けているうちに、朝顔の花のように萎れてしまったのでが、つらいところです。
(原文)あなたの手に 身を委ねてきしまし 夜も明けぬに 朝顔のごとくに 萎む姿を見て 心ひそかに 恨みにも似たる 思いをする
(翻訳)あなたは豊かな指先で私を堪能させてくれました。でも夜が明けかけた頃、彼方自身が朝顔の花のように萎れたことが心残りです。
(原文)あなたの望み 努めてまいり 夜明けの空 萎むことなく
(翻訳)またお会いするとき、希望に沿うように努力します。あなたと共に萎むことなく、夜明けの朝を迎えます。
(原文)逢う日を 来ない 心刻む 寂しさにけり
(翻訳)また会う約束をしておきながら、あなたは来ない。忘れられない愛しき人よ
……シカト
「なまおぼおぼしきことありて」とは?想定外の恋愛事情発覚か?
では、前段の詞書にある「なまおぼおぼしきこと」は何だったのでしょうか?
「なま」とは生々しく、「おぼおぼ」とは曖昧なはっきりしない、情事・〇交とでもいう意味です。
すなわち紫式部はこの時に、夜這いで〇〇を経験した可能性が高いと思われます。平安時代の乙女チックな夢みる少女でもあった紫式部は、現代風にアレンジすると、保健体育の勉強もしっかりマスターしており、性愛に関する知見も豊富であるからこそ、長編恋愛小説が描けるほどの知識を蓄えていたと推測することが出来ます。
意外と紫式部は早熟で敏感で感じやすいウエットな逸女だったのかもしれません。ここまで考えるとアバンチュールな秘〇の相手が気になりすね?皆さんは誰だと思いますか?
相手はどんな人?ヒントは紫式部の「返し」
(原文)返し 手を見分けぬにやありけむ (訳文)返歌の筆跡が、私か姉か見分けられなかったのね?
紫式部は、詩歌の返しで上記のように切返しています。そこから推察すると、方間違えで宿泊した朝顔の間者は、姉妹双方と見識があり、筆跡について追及されいることから姉妹と文通していた、現代風に例えるとペンフレンドだったことが伺えます。
また、紫式部が冷静におぼおぼしき体験を朝顔の間男に淡々と伝えている姿は「私と姉のどっちが好きなの」と言い寄っているようです。そして紫式部はその間者に対して下記の詩歌を再度返します。
(原文)あなたの手に 身を委ねてきしまし 夜も明けぬに 朝顔のごとくに 萎む姿を見て 心ひそかに 恨みにも似たる 思いをする。(翻訳)あなたは豊かな指先で私を堪能させてくれました。でも夜が明けかけた頃、彼方自身が朝顔の花のように萎れたことが心残りです。
この時点では、紫式部はまだ貞操を保持している可能性が高い。
上記の詞書の如く、この段階では紫式部の貞操は保たれているようです。おそらく朝顔の間者は、明け方には体力を消耗して自分自身が萎えた可能性が高いのですが、紫式部は、萎えた原因が理解できなくて朝顔の間者の体調を心配しているような節も見受けられます。
ただ個人的観点から推察すると紫式部自身は「時々、相手をしてあげるから私の姉を大事にして」と言った感情が伝わります。
また、この朝顔の間者は、既に姉妹揃って夜這いを掛けているようにも考えられます。姉妹相手に夜這いとは凄い度胸ですね。しかし、通常であれば姉妹の父親は、このような朝顔の間者を方間違えと言えど、自宅に招き入れることは通常考えられないと思います。
父親が、夜這いと知っても自宅に招き入れる間者とは‥‥≪身分的に父親より身分の高い貴族》《夜這いにより姉妹のどちらかでも良縁に恵まれる》《父親自身の出世に繋がる》と言ったメリットのある人物にたどり着きますが、この続きは最終章で解説します。
この朝顔の間者が夜這いを掛けてくる頃、正暦四(993年)京都では「天下疫癘」と呼ばれた天然痘が大流行して多くの人々が亡くなっています。紫式部の姉もこの頃に亡くなった可能性が高いと思われます。姉が亡くなってから朝顔の間者は、方間違えすることもなく、紫式部の自宅にも訪れなくなった模様です。本命は、式部の姉だったのかもしれません。
平安時代の恋愛事情は、意外と現代より曖昧で貞操感もさほどではない時代であったことと、婚姻年齢も低く近親結婚も頻繁であったこともあり、現代とはやや恋愛に対する風情に違いがありことは確かなようですね。
紫式部一家はいずこへ
長徳二年(996年)正月、紫式部の父・為時が、淡路守(兵庫県淡路島・沼島)に任じられました。一条天皇の即位とともに官職を失って十年の年月をプータローで過ごしながらも、為時パパは必死に任官を願い出ていました。現代風だと転職活動を続けており、念願叶ったりでしたが、国司のレベルは、上国、中国、下国の三部に別れており、淡路は下国筆頭でしたので、為時は大いに不満で再度、転職活動を再開します。今回は、最も得意な漢詩へ思いを込めた情熱を込めこんで一条天皇に書き送りました。
得意の漢詩でお役目ゲット! やったぜ!為時 待望の任官
(原文)苦学寒波 紅涙襟 除目後朝 蒼天在眼
(翻訳)寒さに耐え学問に励んだ夜は、血の涙が襟を濡らした。任官の良く翌朝は、失望のあまり、真っ青な空が目に沁みました。
時の権力者、藤原道長はこの美しい漢詩に関眼を受けて早速、一条天皇に届け出ました。為時は、下国 淡路守から上国 越前国守(福井県北東部)に命じられます。当時の越前国は大陸との海上交通の要所であり、漢詩を得意とする為時の登用は、適材適所の人材配置でした。
(原文)美しく心を躍らす国を憂う
(翻訳)心を躍らす儚き憂う言葉です。国のために忠臣の志を拝領します。
紫式部27才、父とともに、越前国へ旅立つ
当時の婚姻適齢を大幅に超過してアラサーの式部は、京の都から遠く離れた雪国越前で生活すること選択します。選択理由は、諸々ありますが、代表的な理由は以下の二つに絞られます。
一つ目は、紫式部自らが選択しします。理由は「父上には、既に母上も姉上もありません。年老いた父親の世話をするのは私だけだから」という説が濃厚です。
二つ目は、前出の朝顔の男(間者)のことや姉の死で憂鬱な状態の紫式部の気分転換のため、父親の為時が、「一旦、京都から離れて静養させよう」と娘を憂う親心からの申し出だったという説です。
為時の国司の任期は5年もあり、式部の弟の惟規すら京都に残ったに関わらず、父と娘の親子鷹は一路赴任地、越前国に向かいます。
赴任の途中、琵琶湖で一句、旅の難所、塩津山で一句
越前国の国府が置かれた武生(福井県越前市)までの旅路は丸々六日間を要したようです。
紫式部集には、赴任旅中の和歌が残されています。
琵琶湖の湖畔 三尾崎(滋賀県高島市)
(原文)三尾の海に 網引く民の てまもなく 立居について 都恋しも
三尾の海で威勢よく、網を引く漁民の姿を見ていると、都が恋しくなりました。
琵琶湖の船上
(原文)かき曇り 夕立つ波の 荒ければ 浮きたる舟を しづ心なき
空が曇り 夕立ちで波が荒くなり 浮いている舟も私の心も揺れている
旅の難所塩津山
(原文)知りぬらむ 往き来にならず 塩津山 世にふる道は からきものぞと
知っていますか?行き来になれた塩津山を越えるのが辛いように、生きていくことは辛いことを
心なしか覇気のない和歌ばかり…心を病んだ紫式部の姿が目に浮かぶ
和歌から感じられることは、新天地に向かう前向きな姿勢ではなく、遠い国へ赴く心細い気持ちが前面で感じられます。姉を亡くした悲しみ…朝顔の間者に会えない悲しみ…越前国に到着して彼女の心は閉ざされていたようです。深く積もる雪が、紫式部の心を蝕んだのかもしれません。
遠い雪国 越前の暮らしとホームシック
一年後の冬、すぐ近くの日野岳に雪が深く積もりました。それを見て式部は一句。
(原文)ここに書く 日野の杉むら 埋づむ雪 京の小塩の松に 今日やまがへる ふるさとに帰る山路のそれならば 心や行くと 雪もみてまし
ここ越前は大雪で日野山の杉林を雪が埋め尽くしています。都の小塩山の松にも、今日は雪が積もっているでしょう。故郷の山の雪だったら少しは心も晴れるかも
この時点で、うつ病発症&ホームシック症候群で心の病に侵された紫式部は、選択療法としてホームシックをまず克服することを考えて以下の五つの対処法を実践しました。
ホームシックで感じる寂しさを解消する対処法
- 勉強、趣味に没頭する
- 毎日の行動スケジュールを埋める
- 近所を探検してみる
- 実家の弟や友達に手紙を書く
- 思いきって帰省する
徐々に自ら考案した対処法で、元気に体調も回復してきた紫式部に<想定外のアプローチ>が届きます。このアプローチ&オファーによって、紫式部の人生は大きく変わりつつあるのです。
アラサーへのアプローチは、アラーサーフィフの朝顔の間者?
越前に一年ほど滞在した紫式部の元に、20歳以上年の離れた父親・為時と同じ年配の藤原宣孝からマシンガンアプローチを受けます。藤原宣孝は、熱い💕を手紙に込めて愛のメモリーを紫式部に送信し続けます。
宣孝は、父・為時と同年齢で花山天皇時代は、同じ六位蔵人を務めた同僚であり、又従妹弟(またいとこ)の間柄で幼い時から顔見知りの友人でした。その関係で宣孝は、為時の娘を幼い時から知っていたはずです。
そうなると前出の朝顔の間者の正体は、藤原宣孝の可能性が、極めて高いと思われます。(この辺は、NHK大河光る君への脚本家は、うまく歴史と調和させています。大石静さん恐るべし)
愛のマシンガン恋文、テンコ盛り
君思ふとき 胸は苦しき あなたに 逢ひたくても 抱きしめられず
近江守の娘 懸想すと聞く人の「二心なし」など常に言いわれたりければ うるさいので(浮気者は好きじゃない)
君のことを思うと胸が苦しくなるあなたに会いたいそして君を抱きしめたい。
湖にとも呼ぶ水鳥 ことならば 八十の港に声絶えなせそ(あなたは様々な女に言い寄る浮気者でしょ)
あなたは わがすべてなり わが心 あなたしかなく 恋しきかな
よもの海に 塩焼く海女の心から焼くとはかかる 嘆きをやつむ(塩を作るために薪をあつめる人のようにあっちこっちで女に言い寄る人でしょ)
われしもべなり いかなるとき わがすべてなり
この手紙の涙の後は、私の涙です。
紅の涙沿いとど 疎ままる心の色に見ゆ……もとより人の女を得たる御仁なりけりか(ますます信じらないけど…あなたは既に妻のいる人なのですね)
LOVE IS OVER 二人の愛は永遠に
紫式部は、父ほどの年齢の藤原宣孝(のぶたか)と幸せな結婚生活を選択し、女としての幸福の絶頂期を迎えます。藤原宣孝は、為時と同じ家系の流れですが、この一族は文学的というより実務的な才があり、それぞれ仕官して世渡りも上手にこなしました。宣孝は、結婚後、右衛門権佐(うえもんのごんのすけ)・山城守(やましろかみ)を兼務する出世街道まっしぐらで羽振りも良くなったようです。
紫式部の少女時代、姉と二人で寝ている所へ、方違えに来ていた宣孝が明け方しのんできて、「なまおぼおぼしきことありて帰りにける翌朝」という詞書(ことばがき)のある歌を紫式部は詠んで、朝顔の花にそえて、自分から宣孝に贈ったと、書き残していることは有名です。
結婚したとはいえ、当時の夫婦は、同居せず、夫が妻の家へ通う「通い婚」が、主流のため、紫式部にすれば、宣孝がやってくることを待つしかありませんでした。複数の妻の中では、一番若い式部の家に当社は、足しげく通っていました。そして二人に間に子宝にも恵まれました。その頃から宣孝の足が、徐々に遠ざかります。
しののめの 空霧りわたり いつしかと 秋の景色に 世はなりにけり(あなたはもう私に飽きたのですか?)
横目をも 夢と言ひしは 誰なれや 秋の月にも いかでかは見し(浮気しないと言ったのは誰ですか?)
入るかたは さやかなりける 月影を うわの天にも 待ちし宵かな(私はあなたをずっと待っています)
さしてゆく 山の端もみな かき曇り 心と空に 消えし月影
(たずねようと思ったけどご機嫌が悪いようで遠慮しました)
たが里も 訪びもや来ると ほととぎす 心の限り 待ちぞわびにし(あなたをいつまも待っていましたが、あなたは来ませんでした)
紫式部は、こんな寂しい夜を何度も過ごしました。そして二人の別れが突然やってきます。宣孝の死により、紫式部の結婚生活は僅か二年で終焉を向かえることになりました。
二人の仲は、宣孝の死により2年余りで終わりましたが、藤原宣孝の死後、紫式部は「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」(親しかった人が亡くなって煙となってしまった夕方以降、「睦まじい」という言葉と音が似た陸奥国[現在の東北地方]にある塩釜の浦の、塩焼きの煙も慕わしく思える)という夫に捧げる和歌を詠みました。
このことから、ふたりの間には、お互いを思う強い絆があったと考えられています。