平安時代の文化といえば、紫式部の『源氏物語』や和泉式部の『和泉式部日記』など、女性作家による優美な物語が思い浮かびます。しかし、これらの作品が生まれた背景には、一人の男性が大きく関わっていました。その男性とは、平安貴族のトップオブザトップ・藤原道長です。この記事では、道長の生涯と、彼がいかにして平安文化を支えたのかを紹介します。
野心にあふれた政治家としての道長
藤原道長は、966年に名門貴族の藤原北家に生まれました。父や兄は摂政や関白といった高位の官職を独占し、天皇の外戚として権力を握っていました。道長も早くから朝廷に仕えて出世を重ね、999年には娘の彰子を一条天皇の中宮に入内させました。その後も、三条天皇や後一条天皇にも娘を入内させ、一家三后という快挙を成し遂げました。一条天皇の時代には、左大臣や内覧といった要職に就き、政治の実権を握りました。摂政や関白にはなりませんでしたが、それは人事決定権や重要文書の取り扱い権を持つ役職のほうが、権力を集中させるうえで都合がよかったからです。道長は、名誉にこだわらず、実のあるほうを狙う、したたかな政治家でした。
道長の政治手腕は、天皇の退位や即位にも影響を与えました。1011年に一条天皇が崩御すると、道長の姪の子である三条天皇が即位しましたが、道長は彼と仲が悪く、1016年に強引に退位させた後、孫である敦成親王を後一条天皇として即位させることに成功します。
道長は、自分の血縁に近い天皇を選ぶことで、摂関政治の安定を図りました。そして道長は、自分の意見を通すために、天皇の権威を低下させ、天皇の私的な行動を制限したり、天皇の意見を無視して道長は、天皇を傀儡として扱い、政治の主導権を握り、権力の権化と進化して政治的な成功を収めます。それからは、富と権威を増やし、大量の土地や財産を所有、そして豪華な邸宅や別荘を建立します。道長の邸宅は、平安京の中心部に位置して広大な敷地に多くの建物や庭園がありました。
その大邸宅で盛大な宴会や儀式を開き、貴族や僧侶、歌人を招き、食地肉林の大宴会を催して権威を翻します。道長の権威は、朝廷内だに留まらず、社会全体に及び、寺院や神社に寄進を行い、自分の富と権威を見せつけることで、他の貴族や天皇を圧倒していきます。
文学を愛した文化人としての道長
道長は、政治家としてだけでなく、文化人としても有名です。漢詩や和歌を詠むのが好きで、歌会のようなイベントもよく開いていました。平安時代の文学といえば、紫式部の『源氏物語』が有名ですが、紫式部は道長が女房としてつけた女性です。道長は彼女の物語を楽しみにしており、手紙を書いて応援したり、自宅に押しかけて原稿を催促したりしていました。恋多き女房・和泉式部に、恋愛体験記を書くようにすすめたのも、道長といわれています。『源氏物語』や『和泉式部日記』といった、平安の女流文学が後世に残されたのは、時の権力者であった道長の存在が、大きく影響しているといえるます。
道長は、自分の邸宅で、多くの文化人を集めて交流しました。道長の邸宅には、『源氏物語』の登場人物にちなんで名付けられた部屋があり、紫式部や和泉式部などの女房たちが物語を書いたり、和歌を詠んだりしました。道長は、自分も和歌を詠み、歌会や歌合を開きました。道長の歌は、『後撰和歌集』や『拾遺和歌集』などの勅撰和歌集にも入っています。道長は、自分の歌を評価してもらうために、歌人の藤原公任(ふじわらのきんとう)に『詞花和歌集』という私撰和歌集を編纂させました。道長は、自分の感情や思想を和歌に込めることが好きでした。
道長は、漢詩や和歌だけでなく、物語や日記などの散文も書きました。道長の日記は、『御堂関白記』という名前で知られています。道長は、995年から1028年までの33年間にわたって、自分の日々の出来事や感想を書き続けました。道長の日記は、当時の政治や社会の状況を知る貴重な史料となっています。道長の日記は、自分の立場や思惑を正直に書いており、彼の人間性や性格がよく表れています。道長の日記は、平安時代の文化や風俗を伝えるものです。
運命に翻弄された人間としての道長
道長は、権力や文化を極めた男として見られがちですが、彼にも苦悩や葛藤がありました。道長は、紫式部と運命的な絆でつながっていたといわれています。紫式部は、道長の娘・妍子の乳母の娘で、道長の姪にあたります。道長は、紫式部の才能や美貌に惹かれていましたが、身分の差や家族の関係から、恋愛関係にはなれませんでした。そのため、道長は、紫式部に物語を書くことで、自分の気持ちを代弁してほしいと願っていたのではないかと言われています。『源氏物語』の主人公・光源氏は、道長の理想像であり、紫式部は、道長の恋心を物語に昇華したのではないかという説もあります。道長は、紫式部との恋に悩みながらも、彼女の文学活動を支え続けました。 道長は、1028年に背中にできた腫物が原因で、62歳で亡くなりました。腫物の原因は、皮膚がんあるいは糖尿病による感染症と考えられています。道長の日記にも、喉の渇きや目が見えにくいといった症状が記されており、糖尿病を患っていたことは確かなようです。道長は、最期まで紫式部に会うことはできませんでした。紫式部は、道長の死後も『源氏物語』を書き続けましたが、その結末は不明です。道長と紫式部は、生涯にわたって数奇な運命にもてあそばれる恋人であり、文学者でありました。
まとめ
藤原道長は、平安時代の文化を支えた男です。政治家としては、摂関政治の全盛期を築き、天皇家の外戚として権力を握りました。文化人としては、紫式部や和泉式部などの女流作家を育て、『源氏物語』などの名作を後世に残します。人間としては、紫式部との運命的な恋に悩みながらも、彼女の文学活動を支え続けたのも事実です。道長の生涯は、平安時代の文化の魅力を伝えるものです。これぞ、平安時代のTOP OF THE TOP!
西暦(和暦) | 年齢 | 藤原道長の出来事年表 |
966年 (平治元年) | 1歳 | 藤原兼家と「時姫」のもとに誕生する |
986年 (寛和2年) | 21歳 | 父・藤原兼家が摂政となる |
987年 (永延元年) | 22歳 | 藤原倫子と結婚する |
988年 (永延2年) | 23歳 | 長女「藤原彰子」(ふじわらのしょうし)が誕生する |
990年( 永祚2年) | 25歳 | ・兄「藤原道隆」(ふじわらのみちたか)が「関白」、次いで摂政に就く ・藤原兼家が死去する |
992年 (正暦3年) | 27歳 | 長男「藤原頼通」が誕生する |
994年 (正暦5年) | 29歳 | 次女「藤原妍子」(ふじわらのけんし)が誕生する |
995年 (長徳元年) | 30歳 | ・藤原道隆が死去する ・関白となった兄「藤原道兼」が死去する ・摂政・関白に準ずる「内覧」氏長者(うじのちょうじゃ)となる |
996年 (長徳2年) | 31歳 | ・次男「藤原教通」(ふじわらののりみち)が誕生する ・左大臣となる |
1000年 長保2年) | 35歳 | ・藤原彰子を一条天皇の皇后とする ・この頃、三女「藤原威子」(ふじわらのいし)が誕生する |
1007年( 寛弘4年) | 42歳 | 四女「藤原嬉子」(ふじわらのきし)が誕生する |
1008年 (寛弘5年) | 43歳 | 藤原彰子のもとに、「敦成親王」(あつひらしんのう)が誕生する |
1009年 (寛弘6年) | 44歳 | 藤原彰子のもとに、「敦良親王」(あつながしんのう:のちの[後朱雀天皇])が誕生する |
1012年 (長和元年) | 47歳 | 藤原妍子が「三条天皇」の中宮となる |
1016年 (長和5年) | 51歳 | 敦成親王が「後一条天皇」となり、藤原道長は摂政の座に就く |
1017年 (寛仁元年) | 52歳 | 摂政を辞め、太政大臣となる(翌年辞任) |
1018年 (寛仁2年) | 53歳 | 藤原威子が後一条天皇の中宮となる |
1019年 (寛仁3年) | 54歳 | 出家する |
1020年 (寛仁4年) | 55歳 | 「無量寿院」を建てる |
1021年 (治安元年) | 56歳 | 藤原嬉子が敦良親王に入内する |
1022年 (治安2年) | 57歳 | 金堂や五大堂などが完成し、無量寿院が「法成寺」(ほうじょうじ)と改められる |
1025年 (万寿2年) | 60歳 | 藤原嬉子のもとに、「親仁親王」(ちかひとしんのう:のちの[後冷泉天皇])が誕生する |
1027年 (万寿4年) | 62歳 | 法成寺の阿弥陀堂にて死去 |