NHK大河 光る君へ 春はあけぼの 清少納言とファースサマートウイカ 

uika&由里子
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ファーストサマーウイカ奏でる 枕草子 いとおかしに期待

uika&由里子
ウイカと由里子

源氏物語の作者:紫式部が勝手にライバル視した 平安時代の逸女 

時はかれこれ1000年前の平安時代。紫式部曰く、1000年たった現在でも、NHK大河ドラマで主役を演じる麻尋こと紫式部に、なんとファーストサマーウイカが清少納言役で台頭して来るのです。

清少納言は、当時宮廷で絶賛な人気を誇っていた平安時代のファーストサマーウイカのような女性です。

麻尋こと吉高由里子としてみれば、「毒舌で気に食わない関西のおばちゃん」みたいに感じると思います。

紫式部からしてみれば、死別した旦那のことを枕草子(114段)で馬鹿呼ばわりされているので吉高さんも少しキレ気味かもしれません。

「枕草子」 (114段)清少納言

  右衞門佐(うえもんのすけ)宣孝(のぶたか)といひたる人は、
「あぢきなきことなり。ただきよき衣を着て詣でむに、なでふことかあらむ。かならずよも、『あやしうて詣でよ』と、御嶽さらにのたまはじ」
とて、三月晦(つもごり)、紫のいと濃き指貫、白き襖(あを)、山吹のいみじうおどろおどろしきなど着て、隆光が主殿助(とのものすけ)には、 青色の襖、紅の衣(きぬ)、すりもどろかしたる水干(すいかん)といふ袴を着せて、うちつづき詣でたりけるを、帰る人もいま詣づるも、珍しうあやしきことに、
「すべて昔よりこの山に、かかる姿の人見えざりつ」
と、あさましがりを、四月朔(ついたち)に帰りて、六月十日のほどに、筑前守の辞せしに、なりたりしこそ、
「げに言ひけるにたがはずも」と聞こえしか。
これは、あはれなることにはあらねど、御嶽のついでなり。
【口語訳】
 藤原義孝さんは、「面白くないことだ。世間並みに浄い衣を着て参詣したって大した御利益はあるまい。神様もまさか必ず『粗末な身なりで参詣せよ』と権現様も決しておっしゃるまい」と3月の末日に濃い紫の指貫・白い狩衣・山吹のど派手な衣装で、(宣孝の子どもで)主殿助でいる隆光には、青色の狩衣・紅の衣・手の込んだ摺り模様の水干を着せて、供揃えも長々と参詣したらしいのを、吉野から京に帰る人も、これから参詣する人も珍妙奇態なことだとして「一体全体、昔からこのお山で、こんな身なりの人は見かけたことがない」と沢山の人々があきれかえった。いとおかし!
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※ 藤原宣孝は、紫式部と結婚し一女をもうけます。宣孝が非常識に華美な服装で御嶽詣でを敢行した逸話を、宣孝没後に清少納言は小馬鹿に紹介します。このことから未亡人となった紫式部は、清少納言を仇敵視する筆禍の因となった段です。

晴耕雨読

紫式部(吉高由里子)からすれば、下記の心境ではないか?と推察します。

清少納言ほどムカつく女は珍しい。知識をひけらかし、漢字が書けること、監視が読めることをひけらかしていい気になっている。しかも、ソ・レが間違っていると言う、吉本興業なみのオチのタタミ掛けしかも、1000年たっても、今昔の人気作家で源氏物語の作者である紫支部に張り合ってくる嫌味な女。バツイチのくせに、人の旦那の悪口を言うとは、性格もよくないし、髪の毛もワカメのくせに!

枕草子の作者:清少納言 ファーストサマーウイカの言い分

清少納言と紫式部の宮廷での出仕期間は重なりがありませんのでお互いに顔見知りでは無いというのが、歴史学的に広められています。

清少納言は、勝手、気まま、明るく、勝気で陽気、思ったことをすぐ口に出す、一言多い毒舌タイプと言われています。

容姿に関しては美意識が強いが、天然パーマのビックウェーブで少しちじれ毛、お口が大きくてセクシー、おでこはやや広め、なのでお肌にケアと美メイクは絶やさない。

作風は、人があまり取り上げない出来事をわざと取り上げてコミカルに記すこと多く、紫式部の旦那もダサいと記した歌も残っています。だからと言って人間関係がこじれるようなこともなかったようです。

家系は有名な歌人を輩出した中流階級でした。ともすれば、清少納言の心境を下記と推察します。

勝手にライバル視されても困るわ!お会いしたこともないのに知らんがな!あんたなんか?せやけどあんたの旦那は知っとるで!その男はちょっとセンス無いーなー!どねいかせんと一応貴族やから嫁さんがシャッキさせなあかんよ!バツイチ子持の何がわるいん!あんたかて後家やろ?

清少納言の性格は、意外と社交的であり、自身の教養で周囲の人を楽しませる明るさや、貴族たちをやり込める勝ち気な気質でハッキリ主張するサバサバした性格でもある一方、繊細な一面もあり『枕草子』からは清少納言の思いやりとやさしさが読み取れます。

現代でいう「理想のキャリアウーマン」のような人物だったようで、清少納言の生き方にあこがれる当時の女性は少なくなかったようです。

現代風で言うと、NHK大河ドラマで納言を演じるファーストサマーウイカのような逸女だったようです。

意外とイケメンばっかの男性相関図

由里子&ウイカ
由里子

清少納言は、意外とロマンスの殿方にめぐまれていたようです。

ロマンスの殿方が、明け方に本宅に帰る仕草を観察して帰り際に風情がある大人びた殿方、壁際に寝返りうって帰りたくないなどの仕草が可愛い殿方、やるだけやったらさっさと帰る目的達成型ビジネスマンなどと表現しています。清少納言は下記のような表現の歌も残しています。

男って・・・なぜ・・・・私みたいに可愛い女と巡り合えて恋人同士になりながら・・・どうして・・私よりブスな女の妻に娶るの?・・?? 男って・・・わからない・・・不思議な生き物・・奇妙だわ

納言

宮廷での幸せな日々

清少納言は、20代後半で定子サロンに出仕して定子を支えます。現代のように電話やメールが無い時代、唯一の通信手段は手紙でした。

納言は、手紙にかけては、現代のNHK大河ドラマプロデューサー並みに演出を心掛けました。文中に欠かせない和歌を手紙に取り込み、筆跡や用紙の種類、手紙の送り方までも気を配りました。

とくに恋文には、ロマンを込めて演出します。薄い赤に染めた薄手の紙に愛の言葉と和歌を見事な筆跡で書き上げて、押し花を添えて、身なりの整った配達人を従者に雇って届けさせていました。

祭りごとから様々な手紙のやり取りを項目毎に目的の沿った用途に手紙を整えるなどテキパキとした仕事ぶりから、定子サロンの評判もうなぎ上りで、清少納言も看板女房として自らの業務の面目を保ちながら、楽しい出仕生活を楽しんだことが推察されます。

清少納言は、歌人である父や祖父の教えにより高い教養や才能を持った女性で臨機応変な対応が要求された後宮で、豊富な知識と優れた感性をもとに鋭敏に行動し、人々を感嘆させました。

清少納言の性格を調査すると、「鋭い美意識」「利発」「自分勝手」「鋭い突っ込み、描写」「出しゃばり、一言多い」「毒舌家、勝気」などの言葉が数多く並び、知識やセンス、機転を持ち合わせていたことがうかがえます。(反面、人によると少し嫌味な女だったかも)

公卿殿上人らとも積極的に交流していたことから、明るい朗らかな性格であったと考えられますが、反面「賢ぶって学才をひけらかす」などという旨が記されています。(やっぱりね)

ここで清少納言の一句「近くて遠いもの」

  • 情愛のない兄弟、親戚の間柄  (千年前から遠くの親戚より近くの他人)
  • 十二月の大晦日と正月の元旦 (昨日と今日だけど昨年と今年)
  • 極楽 船の道中  (牛車と比べると断然早い)
  • 男女の仲  (これは遠い)

ここで清少納言の一句「めったにないもの」

  • 舅に褒められる婿
  • 姑に可愛がられる嫁
  • さいごまで仲のいいことはほとんどなし

中宮定子と清少納言のいばら道

納言が仕えた中宮定子の父、関白道長が突然死去し、関白の座を定子の兄、伊周と叔父道長の間で権力争いが起こり、兄伊周は都から追放となります。

道長の岩がらせは、なおも続き、実家全焼、母の急死など定子の不幸が続きます。

懐妊中でありながら、定子は絶望のあまり、自ら髪を切り仏門に入りました。

しかし、愛の貴公子一条天皇は、定子を仏門から中宮へと再び参内させました。(いまだかつてない快挙)

こうして定子は一条天皇の愛に守られて二人の子供を出産します。

第二子を定子が出産したことこら、道長は慌てて自分の娘、彰子を立后として二人の皇后制度を制定しました。

その後も一条天皇の定子ラブは衰えることもなく、第3子の解任となりましたが、出産で定子は死去します。

やがて、道長が強くなりだした頃、清少納言の恋人たちも道長側に裏がるようになります。

清少納言の男どもが道長に寝返ったことで納言はスパイと通じていると他の女房達からも無視され始めます。

20代後半のバツイチ子持ちが定子と出会って早8年。定子の逝去を機に——————————道長の執拗な彰子サロンへの移動辞令にも首を縦に振らず、颯爽と清々しく宮廷生活を後にする清少納言でした。

どんどん過ぎ去っていくもの・・・・・・・帆を掛けた船、人の歳、春、夏、秋、冬、空の星、夕日、川の流れ、 By 清少納言

さようなら 楽しかった宮廷生活 誰も私も探さないで!

その後、晩年の清少納言が、どうなったのかは記録が残っていません。

奇しくも紫式部も同様に晩年の記録は残っていません。なぜでしょうか?

1000年前に、日本文学の歴史に残る女流作家の二人の晩年がミステリーとは?本当に不思議ですね?

少なくとも二人が哀れで貧乏な晩年を迎えたとは考えにくいです。

二人はそれなりに出来の良い子供を授かっており、老後の世話も問題なかったと考えます。

また、それなりに賢く晩年に備えた年金積み立てをしていた可能性が高いようです。

結果的には、生活の拠点、老後資金を整えて静かにひっそりと隠居生活を楽しんだと考えるべきです。

だからこそ、晩年の生活が、一般的過ぎて歴史の片隅に追いやられたもしくは、アメリカの証人保護プログラムのように世間から隠遁したことも考えられます。

清少納言に関しては、鎌倉時代の「古事談」では清少納言は晩年荒れはてた粗末な家に住んでいたとの記述が残されています。あるとき清少納言の家の前を通りかかった若い貴族が、「清少納言も落ちぶれたなあ」と話すと
鬼のような形相をした老婆の清少納言が家の中から出てきて、怒鳴り返したとの逸話が残っています。

何はともあれ、この勇ましい逸話も大阪のおばちゃん的でいかにも強気で勝手気ままな清少納言の逸話ではないでしょうか?

2024年は、平安時代の国風文化を吉高由里子とファーストサマーウイカの二人と歴史探訪の旅で決まり!

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