








初恋の人のこと、覚えていますか?甘酸っぱい恋の記憶が、今でも忘れられないという方もいるかもしれません。
千年前の平安時代にも、11歳の時に出会った1人の女性を想い続けた男性がいました。一条天皇です。
『枕草子』や『源氏物語』が生まれた時代を生きていた帝です。
平安時代の一条天皇と二人の后の物語

平安時代には、一条天皇という11歳の時に出会った1人の女性を想い続けた男性がいました。彼は『枕草子』や『源氏物語』が生まれた時代を生きていた帝です。
一条天皇の後宮には、本来なら一人しかいないはずの后が2人並び立っていました。
一人は定子。『枕草子』を執筆した清少納言の上司です。もう一人は彰子。『源氏物語』の作者、紫式部の上司だった女性です。
華やかで知的なサロンを作り上げた定子と、奥ゆかしく控えめな彰子は、性格も対照的でした。
ライバル関係だったと思われがちな2人ですが、彰子は定子の死後、彼女の息子を引き取って育てるなど、必ずしも敵対し続けていたわけではありません。
一条帝の後宮には、本来なら一人しかいないはずの后が2人並び立っていました。
一人は定子。『枕草子』を執筆した清少納言の上司です。もう一人は彰子。『源氏物語』の作者、紫式部の上司だった女性です。
華やかで知的なサロンを作り上げた定子と、奥ゆかしく控えめな彰子は、性格も対照的でした。
2人の后が同時に並び立つことになったのか、権力争いに翻弄された女性たちの愛と哀しみのドラマを見ていきましょう。
定子との純愛

7歳という幼さで即位した一条天皇は、病気がちで寂しい子供時代を過ごしました。
両親の折り合いが悪く、父親である円融天皇とあまり会うことができなかったのです。
正暦元(990)年、一条天皇が11歳になった年、初めての后である14歳の藤原定子が、天皇の住まいである内裏にやってきます。
定子は一条天皇のいとこです。
お酒大好きで陽気な父、藤原道隆と、独身時代はバリキャリとして女官の最高位に上りつめた知性派の母、貴子に育てられました。よく笑う明るい性格で、当時の女性としては珍しく漢詩を読みこなすことができました。
入内した時点で定子は唯一の后でしたが、その地位に甘んじることなく、清少納言をはじめお洒落な会話ができる知的な女房たちを集め、流行の最先端をゆくサロンを作り上げました。
宮廷に明るく華やかな空気を持ち込んだ3つ年上のお姉さんに、一条天皇は夢中になります。
この時代、天皇は、ひとりの女性を愛しすぎてはいけない存在でした。
身分の高い女性を中心に、多くの女性たちをバランスよく愛し、たくさんの子孫を残すことが、天皇家の存続につながると考えられていたからです。
それでも、一条天皇と定子があまりに仲良しなので、ほかの貴族たちは自分の娘を入内させることをためらうほどだったようです。
さらに后の最高位である「中宮」になった定子を、しっかりとバックアップしていたのが父の道隆です。
道隆は天皇の政務をサポートする関白に就任し、定子のお兄さんである長男の伊周(これちか)を内大臣にして、完全に宮廷を牛耳っていました。
まさに飛ぶ鳥を落とす勢いです。
運命の分かれ道

ところが、栄光の絶頂で、道隆は病に倒れました。
病名は糖尿病。大酒飲みで知られていた道隆の病状は悪化の一途をたどり、定子が19歳になった春に亡くなってしまいます。
次に関白になったのは道隆の弟・道兼でしたが、流行り病のために、就任から数日でこの世を去りました。道隆は、息子の伊周を後継ぎにしたいと考えていました。
それに反対したのが、一条天皇の母、詮子です。
詮子は兄の道隆よりも、実家で長い間一緒に暮らした弟の道長に親しみを感じていたようです。
加えて、定子たち一家の存在によって自分と息子の間に距離ができてしまったことを寂しく感じていたのでしょう。
一条天皇の寝室にまで乗り込み、涙ながらに道長を後継ぎにするよう説得したと、歴史物語『大鏡』には書かれています。和を重んじるやさしい性格だった一条天皇は、母の意向に逆らうことができず、道長を当時の公卿の実質的な最高権力者である「内覧」という役職に就けることを決めました。
兄たちが相次いで亡くなったことで、権力から遠いと思われていた末っ子の道長に、突然チャンスがめぐってきたのです。
道長との権力争いに負けたことで、理性を失ってしまったのが伊周です。
イケメンで頭の切れる人物だったようですが、おそらく負けず嫌いの性格だったのでしょう。
公の場で道長にけんかを吹っかけ、あわや乱闘という騒ぎになりました。
さらに、自分が付き合っている恋人に前の帝が言い寄っているのではないかとあらぬ疑いを抱き、弟の隆家と一緒に、前帝を襲撃する事件を起こしてしまったのです。
タイミング悪く、病気で寝込んでいた詮子の家の床下から、呪いの道具が見つかります。
人びとは伊周の仕業ではないかと噂しました。伊周、万事休す。定子を苦しませたくないという思いから、一条天皇は悩みに悩みましたが、とうとう伊周と隆家を流罪とする決断を下しました。
ここから、定子の運命も大きく変わっていきます。
悲劇の始まり

定子は当時、一条天皇の子供をお腹に宿し、実家に帰っていました。
そこへ、行方をくらました兄を探す役人たちが乗り込んできます。
定子は用意された牛車に隠れますが、実家の天井が剥がされ壁が破壊され女たちが泣き叫ぶ姿を目の当たりにして絶望。
自ら髪を切って、出家してしまいました。
内裏で報告を聞いた一条天皇は、定子の様子を聞いて涙をこぼします。彼は心から定子を愛していました。
けれど、結果的に定子の兄を罪人とし、実家を破壊して、出家するほど追いつめてしまった。出家した女性、それも罪を犯した伊周の妹を再び内裏に迎えることは、宮廷の貴族たちが許しません。
自分の気持ちはいつも後回し、天皇として冷静な判断をすることを心がけてきた一条天皇ですが、このときだけは、どうしても最愛の妻に会いたいという思いを抑えることができませんでした。
周到な根回しの末、一条天皇は定子と、彼女が産んだ女の子を内裏の隣にある「職御曹司(しきのみぞうし)」に呼び寄せます。当然、貴族たちは非難ごうごうです。
後ろ盾となる父も、兄もいない宮廷で、定子は一条天皇の愛だけを頼りに暮らすことになったのです。
彰子との結婚

そんな中でも、一条天皇の定子への愛は冷めることがありません。彰子との結婚披露宴に出席しながらも、一条天皇の心は、定子と誕生したばかりの皇子のもとへ飛んでいきたい気持ちでいっぱいだったのではないでしょうか。
一条天皇の心を彰子のもとに惹きつけようと、道長は贅をつくして、豪華な調度品や貴重な書物を彰子の部屋に取り揃えます。道長への気づかいもあり、一条天皇は彰子を大切に扱ったようですが、いかんせんまだ12歳という若さです。
歴史物語『栄花物語』には、21歳の一条天皇が「(彰子が)あまりにも幼いご様子で、一緒にいると私がおじいさんみたいで恥ずかしいよ」と言ったと記されています。
加えて彰子はもともと、定子のように明るく人懐っこい性格ではなかったようです。
一条天皇が得意の笛を演奏して聞かせてもそっぽを向いていたと記録が残っています。
「こっちを向いてごらん」と天皇がうながしても「笛の音は聴くもの、見ることはできません」と拗ねてしまう彰子の幼さ、そしてプライドの高さを、一条天皇はどうしても定子と比べてしまったのではないでしょうか。
こんな様子では、彰子が皇子を出産することはしばらく期待できそうにありません。
道長はすぐに次の手を打ちます。
本来ならひとりしかいないはずの后の最高位「中宮」の座を、彰子にも与えようというのです。その代わり、現在中宮である定子は便宜上「皇后」と呼ぶことにしようという、前代未聞の提案です。
定子を愛しながらも、共に国を治める片腕として道長を大切に考えていた一条天皇は、この申し出を受け入れました。日本で最初に、お后が2人いる「二后並立」が成立した瞬間です。
二后並立の終焉

二后並立の状態は、一条天皇の死まで続きました。一条天皇は長保5(1003)年、25歳で崩御します。
その直前に、定子は一条天皇の第一皇子である敦康親王(あつやすしんのう)を出産していました。
一条天皇は、敦康親王を自分の後継者にすることを望んでいたようですが、道長はそれを阻止しました。
道長は、彰子が産んだ第二皇子である敦良親王(あつよししんのう)を次の天皇にすることを画策していたのです。道長は、一条天皇の死後、敦良親王を即位させるために、敦康親王を出家させようとします。
しかし、定子は敦康親王を守るために、自らが皇太后となって政治に関与することを宣言します。
道長はこれに対抗して、彰子を皇太后にすることを主張します。こうして、日本史上初めて、皇太后が2人並び立つことになりました。この状況は、定子が亡くなるまで続きます。
定子は長和4(1015)年、35歳で崩御します。
その直前に、敦康親王を出家させることに成功した道長は、敦良親王を三条天皇として即位させました。
定子の死後、彰子は敦康親王を引き取って育てることになりました。彰子は、定子の死を悼んで、『源氏物語』の作者である紫式部に、定子の生涯を綴った『栄花物語』を書かせました。
彰子は、定子とは違う形で、一条天皇の子孫を守り続けたのです。彰子は長元9(1036)年、49歳で崩御します。彼女の死によって、一条天皇と二人の后の物語は幕を閉じました。
さいごに

彰子は一条天皇の死後も、自分の子供たちや定子の子供たちを見守りながら、女院として朝廷に影響力を持ちました。彰子のサロンには、紫式部のほかにも、『今昔物語集』の作者とされる菅原孝標女や、『栄花物語』の作者とされる藤原実資の娘・藤原為子など、多くの文化人が集まりました。
彰子は彼らに対して、定子のような厳しさや冗談好きな性格は見せませんでしたが、優しく温かい人柄で接しました。彰子のサロンは、平安時代中期の文化の発展に大きく貢献したのです。
彰子は一条天皇の死から50年以上も生きましたが、その間にも様々な出来事がありました。彰子の子供たちのうち、敦成は後一条天皇として即位しましたが、病弱で短命でした。
敦成の子供たちも、後朱雀天皇と後冷泉天皇として即位しましたが、どちらも若くして亡くなりました。
彰子は自分の子孫が次々とこの世を去る悲しみに耐えながら、最後まで女院としての役割を果たしました。
彰子は、一条天皇の愛を得ることができたのか、それとも一生、定子の影に隠れていたのか、私たちにはわかりません。
しかし、彰子は自分の運命を受け入れ、自分の立場でできることを精一杯やったのではないでしょうか。
定子と彰子は、同じ一条天皇に嫁いだという運命を共有しながら、全く違う人生を歩みました。
定子は一条天皇の最愛の妻として、短くも華やかな人生を送りました。彰子は一条天皇の妻として、長くも苦難の多い人生を送りました。
しかし、どちらも一条天皇を愛し、一条天皇からも愛されたことは間違いありません。
定子と彰子は、平安時代の女性の代表として、私たちに多くの感動や教訓を与えてくれます。定子と彰子の物語は、千年以上たった今でも、色あせることなく私たちの心に響くのです。



