平安時代中期に『源氏物語』を書いた紫式部は、日本文学史上でも最も有名な女性作家の一人です。
しかし、彼女の本名や家族については、ほとんど知られていません。紫式部の家族は、どんな人たちだったのでしょうか?そして、彼女の作品にどのような影響を与えたのでしょうか?
この記事では、紫式部の家族について、紹介していきます。
まひろ(紫式部)の家族
紫式部の本名は何?
紫式部の本名は、現在でも不明です。紫式部という名前は、彼女の父親の官職である式部丞に由来するあだ名で、本名ではありません。紫式部の本名については、様々な説がありますが、確かな根拠はありません。
平安時代の女性は、本名ではなく、官職や身分によるあだ名や通称で呼ばれることが多かったです。また、女性の名前は、男性の名前と同じように漢字で書かれることは少なく、仮名で書かれることが多かったです。
仮名は、漢字と違って、音のみを表す文字であり、読み方や意味が一定ではありませんでした。
そのため、仮名で書かれた女性の名前は、現代の人にとっては、正確に読み取ることが困難です。紫式部の本名も、仮名で書かれたものがあったとしても、それがどのように読まれたか、どのような意味を持っていたかは、わかりません。
歴史学者の角田文衛は、紫式部の本名は「藤原香子(かおるこ)」だという説を唱えていますが、2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」では、紫式部の本名は「まひろ」という設定になっています。
紫式部の家族構成は?
紫式部の家族構成は、父親の藤原為時、母親のちやは、姉の為時長女、弟の藤原惟規、結婚後は、夫の藤原宣孝、娘の大弐三位ということになります。
紫式部は、藤原北家の良門流という家系に属しており、祖父は百人一首にも選ばれている歌人の藤原兼輔です。紫式部の家族は、いずれも文学や漢詩に優れた人々でした。
父:藤原為時について
藤原為時とは、平安時代中期の貴族で、文学や漢詩に優れた人物です。紫式部の父親としても有名です。
彼は、藤原北家の一族で、一条天皇の皇太子時代から仕えました。式部丞や蔵人などの官職を歴任し、越前守や越後守などの国司も務めました。
彼は、漢詩の才能に長けており、一条天皇に感銘を与えたこともあります。また、娘の紫式部に対しても厳しい教育を施しましたが、時には心無い言葉を放ったこともありました。
彼は、長和5年(1016年)に出家し、その後の消息は不明です。彼の漢詩や和歌は、いくつかの文学集に収録されています。
母:ちはやについて
紫式部の母の死亡年は、一般には1001年とされていますが、これは推定であり、確かな根拠はありません。紫式部の母の死因も、不明です。紫式部の母の生涯についても、ほとんど記録が残っていません。
紫式部の母は、為時の正室として、紫式部と惟規を産んだこと以外には、ほとんど知られていません。紫式部の母の存在は、紫式部の作品においても、ほとんど影を潜めています。紫式部の母は、幼くして死に別れたとされていますが、その時の年齢や生涯についての情報は、ほとんどありません。
紫式部の母が亡くなったのは、紫式部が生まれてから数年後のことであると考えられます。紫式部の母の死因については、不明ですが、病気や出産の際の合併症などが考えられます。紫式部の母の年齢についても、不明ですが、20代前半から後半のことであると推測されます。
紫式部の母の生涯については、為時の正室となり、為時長女、紫式部、惟規を産んだこと以外には、ほとんど記録がありません。
姉:藤原為時長女の逝去について
姉の為時長女については詳しい史実は残っていません。
紫式部の姉は長徳二年(996)の父・為時の越前下向に同行していないことから、これ以前に亡くなった者と思われます。死因については分かっていません。
この当時は、毎年のように疱瘡(天然痘)や疫病が流行っていたことなどを考えると、何らかの疫病でなくなった可能性もあります。まひろと惟規が幼かった頃、母親代わりに二人を育てた優しき姉であったことが知られていますが、それ以外のことは史実に残っていません。
長徳二年(996)の以前に亡くなっていたことを考えるならば、20代での逝去の可能性が高く、その死は紫式部の予期していたものではなく、紫式部の心に大きな傷を残したと考えられます。
弟:藤原惟規について
紫式部の弟は、一人だけです。その弟の名前は、藤原惟規といいます。幼名は、太郎といいます。
NHK大河ドラマ「光る君へ」では、高杉真宙が演じています。惟規は、紫式部と同じく文学や漢詩に秀でており、一条天皇に仕えていました。
惟規は、紫式部の幼少時に、彼女とともに父から漢籍を学んだことがありますが、紫式部は暗誦できたのに対し、惟規はできなかったというエピソードがあります。
長徳二年(996)、父越後守に任じられた父とともに越後に赴任した際に、病死しました。(享年37歳)
まひろは藤原為時のもとで何を経験したか?
紫式部は、父・為時のもとで、文学や漢詩の教育を受けました。為時は、紫式部に『史記』や『文選』などの漢籍を読ませたり、暗誦させたりしました。
紫式部は、父の教えによって、漢文や和歌の才能を開花させました。また、為時は、紫式部に宮廷の風俗や政治の動向などを教えたり、自分の仕事の話をしたりしました。
紫式部は、父の話から、平安貴族社会の内幕を知ることができました。これらの経験は、紫式部の作品に大きな影響を与えました。
紫式部の父親のことは、『源氏物語』や『紫式部日記』において、あまり詳しく描写されていません。しかし、紫式部は、父親に対して敬愛の念を持っていたことがうかがえます。
例えば、『源氏物語』の「若菜上」の巻では、光源氏が紫式部の父親に会いに行く場面がありますが、その際に紫式部は、父親のことを「おほやけの御方」と呼んでいます。これは、父親の地位や権威を尊重する表現です。
また、『紫式部日記』の「越後の巻」では、父親が越後に赴任したことについて、紫式部は「わが身のことのように心配している」と述べています。これは、父親に対する深い愛情を示す言葉です。
大河ドラマ「光る君へ」で紫式部の家族構成はどう描かれているか?
大河ドラマ「光る君へ」での家族構成は、父の藤原為時:岸谷五朗、母のちやは:国仲涼子、弟の藤原惟規:高杉真宙、夫の藤原宣孝:佐々木蔵之介、娘の大弐三位ということになっています。
紫式部の本名は「まひろ」という設定になっており、吉高由里子が演じています。紫式部の家族は、いずれも文学や漢詩に優れた人々でした。
まひろ(紫式部)の家族図と源氏物語の関連性
紫式部の家族図と源氏物語の関連性は、以下のように推測されます。
- 紫式部の父・為時は、源氏物語の「桐壺」の巻に登場する藤原朝臣と同一人物と推察されます。藤原朝臣は、光源氏の父・桐壺帝の側近であり、光源氏の母・桐壺更衣の兄でもあります。紫式部は、父の立場を考えて、光源氏の母の死について、慎重に描写しています。
- 紫式部の弟・惟規は、源氏物語の「若菜上」の巻に登場する藤原惟光と同一人物と推察されます。藤原惟光は、光源氏の友人です。紫式部は、弟の死について、深く悲しみました。
- 紫式部の夫・宣孝は、源氏物語の「若菜下」の巻に登場する藤原宣光と同一人物と推察されます。藤原宣光は、光源氏の友人です。
- 紫式部の娘・大弐三位は、源氏物語の「藤裏葉」の巻に登場する藤壺の女御と同一人物と推察されます。藤壺の女御は、光源氏の娘であり、後冷泉天皇の后となります。
以上が、紫式部の家族について調べてみました。
紫式部の家族について、もっと知りたい方は、NHK大河ドラマ「光る君へ」をご覧ください。