藤原家の起源:中臣(藤原)鎌足
藤原家の始まりは飛鳥時代に遡ります。中大兄皇子(天智天皇)と共に乙巳の変から大化の改新に至る諸改革に関与した中臣鎌足がその起源です。彼の功績が認められ、死の直前に天智天皇から「藤原」の姓を賜りました。この「藤原」の名は、鎌足の出生地である大和国高市郡藤原(現在の奈良県橿原市高殿町付近)に由来します。
通説では、鎌足の子である藤原不比等がその姓を引き継ぎ、以後不比等の流が藤原朝臣と認められたとされています。不比等は父鎌足に劣らぬ功績があり、父の改革を引き継ぎ古代日本の礎を築いた稀代の政治家と言われています。不比等は4人の優れた息子に恵まれました。
名門主流派の始まりと分岐:藤原家4兄弟とは?
藤原四兄弟とは、奈良時代前半の天平年間に政権を握った藤原不比等の4人の息子を指します。
長男の藤原武智麻呂(680年 – 737年)は藤原南家の開祖、次男の藤原房前(681年 – 737年)は藤原北家の開祖、三男の藤原宇合(694年 – 737年)は藤原式家の開祖、四男の藤原麻呂(695年 – 737年)は藤原京家の開祖となりました。
武智麻呂、房前、宇合は同母兄弟で、麻呂は3人の異母弟です。彼らは729年から737年までの間、朝廷の政治を担い、これを藤原四子政権と呼びます。四子政権時代には律令財政が確立され、天平6年(734年)に官稲混合による正税が成立し、天平8年(736年)には公田地子の京進が開始され、京や畿内に惣管・平城京以西の道ごとには鎮撫使、のちに節度使を設置し治安維持を強化しました。
しかし、四兄弟は737年の天然痘の流行(天平の疫病大流行)により相次いで病死し、藤原四子政権は終焉を迎えました。その後、四兄弟の子が若かったため、政権は光明皇后(不比等の娘)の異父兄弟で臣籍降下した橘諸兄(葛城王)が右大臣として担うことになります。その後は、四兄弟のうち宇合の息子広嗣が740年に乱を起こし討伐された(藤原広嗣の乱)こともあり、孝謙朝に武智麻呂の子豊成、次いで仲麻呂が台頭するまで、藤原氏の大臣の不在時代がしばらく続くことになります。
しかし、藤原四兄弟の子の系統はそれぞれ南家、北家、式家、京家と呼ばれ、それぞれの家に栄枯盛衰はあったものの、その後の政治や学問、文化に大きな足跡を残しています。藤原の四家系は、日本の政治文化に大きな影響を与えました。
- 長男:藤原武智麻呂 (680年 – 737年):藤原南家の開祖
- 次男:藤原房前 (681年 – 737年):藤原北家の開祖
- 三男:藤原宇合 (694年 – 737年):藤原式家の開祖
- 四男:藤原麻呂 (695年 – 737年):藤原京家の開祖
藤原の名門:北家とは?
藤原氏は、奈良時代に藤原不比等という人物が天武天皇に仕えて以来、代々天皇の側近として重用されました。不比等の子孫は、四人の息子によって四つの家系に分かれました。その中で次男の房前の家系が藤原北家です。
藤原北家は、平安時代初期に藤原良門が摂政となって以来、摂関政治と呼ばれる天皇の補佐と監督を行う役職を世襲しました。摂関家とも呼ばれる藤原北家は、天皇の外戚となることで、朝廷の実権を握りました。特に、道長の時代には、天皇の即位や皇子の誕生など、国家の重要な事柄にも影響を及ぼすようになりました。
藤原北家は、政治だけでなく、文化や文学にも優れた人物を多く輩出しました。和歌や漢詩、日記や物語など、多彩な文芸作品を残しました。その中でも、道長の孫である紫式部は、世界最古の長編小説とされる「源氏物語」の作者として、日本文学史に不朽の名を残しました。
しかし、藤原北家の栄光は長くは続きませんでした。道長の死後、その子孫たちは内紛や外敵によって次第に衰退していきました。平安時代末期には、武士の台頭によって、藤原北家の権力は失われていきました。
藤原 道長~藤原北家の最盛期を築いた政治家~
平安時代に最も繁栄した貴族の一族、藤原北家。その中でも、道長、為時、紫式部という三人の人物は、それぞれ政治、文化、文学の分野で大きな足跡を残しました。ここでは、藤原北家の歴史と、その中心的な役割を果たした三人の人物の生涯と業績を紹介します。
道長は、藤原北家の第8代当主で、摂政・関白・太政大臣などの要職を歴任しました。道長は、天皇の外戚となることで、朝廷の実権を握りました。道長は、自らの娘や孫娘を天皇や皇子に嫁がせることで、天皇家との結びつきを強めます。
道長の娘や孫娘は、一条天皇、三条天皇、後一条天皇、白河天皇などの中宮や皇后となりました。道長は、天皇の即位や皇子の誕生など、国家の重要な事柄にも影響を及ぼすようになりました。例えば、一条天皇の皇子である敦康親王は、道長の孫娘である彰子の子でしたが、道長は敦康親王を皇太子にすることに反対しました。
その理由は、敦康親王が道長の政敵である藤原頼通の娘を妃にしていたからです。道長は、敦康親王を皇太子にすることを阻止するために、一条天皇に別の皇子をもうけさせるように画策しました。その結果、一条天皇は道長の娘である定子の子である順徳親王を皇太子にすることを決めました。
道長は、政治だけでなく、文化や文学にも関心が深く、多くの文人や芸術家を自らの邸宅に招きました。道長の邸宅は、平安京の中でも最も豪華で広大なものでした。道長は、邸宅に多くの美術品や書物を集め、庭園や池を造り、華やかな宴会や行事を催しました。道長の邸宅は、平安時代の文化の発展に大きな役割を果たしました。
道長は、1027年に死去しました。道長の死後、その子孫たちは、摂関家の地位を維持しようとしましたが、内紛や外敵によって次第に衰退していきました。道長の政治は、藤原北家の最盛期を築いたと同時に、その没落の原因を作ったとも言われています。
藤原 為時:漢詩によって出世した文人(式部の父)
為時は、道長の叔父にあたる人物で、漢詩や和歌に秀でた文人でした。為時は、花山天皇の教育係を務めたり、式部丞や越前守などの官職に就きました。為時の娘は、紫式部で知られる「源氏物語」の作者です。為時は、漢詩によって人事変更が行われたという逸話が残っています。
為時は、受領(地方の長官)になることを望んでいましたが、空きがないという理由で為時の申請は却下されてしまいました。為時は、深く悲しみましたが、翌年の人事の際、女官を通じて受領になれるようにお願いする文書を一条天皇に差し出しました。文書には、次のような漢詩がしたためられていました。
※夜の寒さに耐えながら勉学に励んだが、人事の時に見捨てられて涙を流した。しかし、次の人事の朝には、天が見てくれていると信じた。
この漢詩は、為時の苦労と希望を表現したものでした。一条天皇は、この漢詩に感動し、為時を越前守に任じることを決めました。為時は、漢詩によって出世することができたのです。
為時は、娘の紫式部に対しても漢詩の教育を施しました。紫式部は、父の期待に応えるために、努力して学びました。紫式部は、父から受けた教育のおかげで、『源氏物語』において、豊富な漢詞や漢詩の引用を用いることができました。
為時は、長和5年(1016年)に出家し、その後の消息は不明です。為時の漢詩や和歌は、いくつかの文学集に収録されています。
藤原 為時の次女、紫式部:世界最古の長編小説を書いた女性作家
紫式部は、為時の娘で、『源氏物語』の作者として知られる女性作家です。紫式部の本名は不明で、父の官職である式部丞に由来するあだ名です。紫式部は、藤原宣孝という人物と結婚しましたが、夫は早くに亡くなりました。紫式部は、一条天皇の中宮である藤原定子の女房として仕えました。
紫式部は、『源氏物語』という長編小説を書きました。『源氏物語』は、光源氏という架空の貴族の恋愛や人生を描いた物語で、54巻からなります。『源氏物語』は、人間の感情や心理を細やかに描写し、美しい文体で表現されています。『源氏物語』は、日本文学の最高傑作とされるだけでなく、世界最古の長編小説としても評価されています。
紫式部は、『源氏物語』の他にも、『紫式部日記』という日記を残しました。『紫式部日記』は、紫式部が仕えた定子の死や、父の越後赴任など、紫式部の生活や感情を記録したものです。紫式部の死亡年は、不明ですが、一般には1025年とされています。紫式部の墓は、京都市左京区の大原野にあります。
現代:公家、華族、侯爵の末裔として現代まで血筋を保つ
藤原北家は、平安時代に最も繁栄した貴族の一族でした。その中でも、道長、為時、紫式部という三人の人物は、それぞれ政治、文化、文学の分野で大きな足跡を残しました。しかし、藤原北家の栄光は長くは続きませんでした。
平安時代末期には、武士の台頭によって、藤原北家の権力は失われていきました。しかし、藤原北家の子孫は、公家や華族の末裔として脈々と現代まで平安時代の血筋を保っています。現在の五摂家の当主は、以下のようになっています。
近衛家:近衛忠煇(1939年-存命)
鷹司家:鷹司尚武(1945年-存命)
九条家:九条道成(1968年-存命)
一条家:一條實昭(1945年-存命)
二条家:二条基敬(1944年-存命)
藤原の家系は、日本の政治文化に大きな影響を与え、その血筋は現代まで続いています。藤原家の歴史は、日本の歴史と密接に結びついており、その影響は現代にも及んでいます。藤原家の歴史を学ぶことは、日本の歴史、文化、政治を理解する上で非常に重要です。藤原家の歴史は、日本の歴史の一部であり、その影響は今日まで続いています。