日大アメフト廃部か? 膿を出し切れ 、フェニックス

Nihon University Football Club
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日本大学アメリカンフットボール部(通称:日大フェニックス)は、日本の大学アメリカンフットボール界で最も歴史ある名門チームの一つです。しかし、近年は不祥事や不正入試などで大きなダメージを受け、かつての輝きを失っています。このブログでは、日大フェニックスの栄光の歴史と現在の危機、そしてその復活に向けての可能性について考察していきます。

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目次

日大フェニックスの栄光の歴史

日大フェニックスは、1925年に創部された日本最古のアメリカンフットボールチームです。創部から現在までに数々の優勝や記録を打ち立て、日本のアメリカンフットボール界に多大な影響を与えてきました。

特に、篠竹幹夫氏の監督時代(1959~2003年)には驚異的な活躍を見せ、監督通算401勝という大記録を持ちます。篠竹氏は、厳しい指導と戦術的なセンスでチームを率い、多くの名選手や名コーチを育てました。例えば、元日本代表QBで現在は日本代表HCの佐々木隆治氏や、元NFL選手で現在はNFL解説者の山下智久氏などが挙げられます。

日大フェニックスは、関東学生アメリカンフットボール連盟(リーグ)の優勝35回、全日本大学アメリカンフットボール選手権大会(甲子園ボウル)の優勝21回という圧倒的な成績を残しており、日本のアメリカンフットボール界に多大な功績を残しました。また、1971年には初めて甲子園ボウルで外国人選手(米国人QB)を起用し、1984年には初めて甲子園ボウルでオーバータイム制を導入し、さらに1998年には初めて甲子園ボウルで女性応援団長を任命するなど、他のチームやファンにも刺激を与える斬新な試みを積極的に行いました。

このように、日大フェニックスは長年にわたってアメリカンフットボールの発展に多大な貢献をしてきました。その功績は今もなお語り継がれ、多くの人々に愛されています。

元凶は保体審(ホタイシン)

日本大学フェニックスは、日本の大学アメリカンフットボールの中でも最も著名なチームの一つです。しかし、このチームは過去に不祥事に見舞われました。2003年に篠竹氏が監督を退任した後、チームは暗転し始めました。この暗転の背景には、保体審(正式名称:保健体育審議会)という組織がありました。

保体審とは、日本大学相撲部の出身である前理事長・田中英寿氏が1950年代に設立した組織であり、保健体育に関する学内の方針や予算を決める権限を持っていました。そのため、保体審は日本大学スポーツ部の監督やコーチの任命や解任、選手の奨学金や就職の斡旋などにも関与していました。

保体審は、田中氏の強力なバックアップを受けて、日本大学のスポーツ界において絶大な権力を握っていました。そのため、保体審は日本大学フェニックスにとっても恩恵と災いの両面を持つ存在でした。一方で、保体審は日本大学フェニックスに多くの資金や人材を提供し、チーム強化に貢献しました。例えば、篠竹氏が監督に就任した際には、保体審が彼を推薦しました。また、日本大学フェニックスが甲子園ボウルに出場する際には、保体審がチームに豪華なユニフォームやバスを用意しました。さらに、日本大学フェニックスが外国人選手を起用する際には、保体審が彼らの契約や生活面をサポートしました。

しかし、一方で、保体審は日本大学フェニックスにも多くの圧力や干渉を加えました。例えば、保体審は日本大学フェニックスの監督やコーチの人事に口出ししました。また、保体審は日本大学フェニックスの選手の出場権やポジションにも介入しました。さらに、保体審は日本大学フェニックスの試合内容や戦術にも指示や批判を行いました。

このように、保体審は日本大学フェニックスの自主性や独立性を奪い、チームの統一性や信頼性を損なう要因となりました。保体審が介入することで、チーム内の人間関係が悪化することもありました。

保体審が日本大学フェニックスに与えた影響は、今でも続いています。しかし、日本大学フェニックスは、その後、チーム再建に向けて取り組んできました。林真理子理事長が就任し、保体審を廃止し、スポーツ部の自主性や独立性を確保する施策を打ち出しました。その結果、チームは徐々に回復してきています。今後は、日本大学フェニックスが、より一層充実したチームとなることを期待しています。

保体審の実態とは

日本大学において、保体審はスポーツ界だけでなく学内全体にも影響力を持っていました。特に、田中氏がトップだった学内のヒエラルキーを逆転させることに成功しました。田中氏は、総長を廃止して学長とし、理事長がトップ、その下が学長という“下剋上体制”を作り上げました。それらの背景にあったのが保体審でした。

保体審は、田中氏の意向に沿って、学内の人事や予算、政策などに介入し、田中氏の権力を強化しました。田中氏の支持者や関係者を優遇し、反対者や批判者を排除することで、田中氏の権力基盤を強固なものにしました。保体審は、これらの行動によって、日大の組織や文化に深刻な歪みをもたらしました。

保体審の存在が、不正入試や暴力行為などの不祥事につながったとされています。保体審は、自分たちの利益やコネを優先することで、日大の入試において不正や不公平を助長しました。スポーツ部員や指導者の子弟や知人を優遇するために、特別推薦入試や一般入試で不正な加点や合格を行いました。教職員や理事会メンバーの子弟や知人を優遇するために、教職員推薦入試や理事会推薦入試で不正な加点や合格を行いました。また、保体審は、日大の寄付金や口利きなどで得た利益を分配するために、一般入試で不正な加点や合格を行いました。

保体審が行った影響力を強めるための行動は、日大のスポーツ界だけでなく、学内全体にも影響を与えました。保体審は、田中氏がトップだった学内のヒエラルキーを逆転させることに成功し、日大の組織や文化に深刻な歪みをもたらしました。日大は、不正入試や暴力行為などの不祥事に見舞われ、信頼を失うことになりました。保体審が行った行動によって、日大の問題の大きさが浮き彫りにされたと言えます。

保体審が行った行動によって、日大は組織改革を余儀なくされました。林真理子理事長は、保体審を廃止し、スポーツ部の自主性や独立性を確保することで、日大の組織改革に取り組みました。林氏は、日本大学の組織や文化を刷新し、公正さや透明さを回復することを掲げ、日大の教育や研究の質を向上させる取り組みを行いました。林氏は、日大の社会的責任や貢献を強化し、学生や教職員の自信や誇りを取り戻すことにも取り組んでいます。

保体審が行った行動によって、日大は多くの課題を抱えることになりました。特に、オンライン授業やリモートワークなどで課題が生じています。林真理子理事長は、日大の改革に取り組む中で、多くの具体的な施策や取り組みを実施しました。これらの施策によって、日大は再び信頼を取り戻すことができるでしょう。

保体審と輪島

日大保体審と輪島の関係は、田中英壽氏が日大相撲部の監督だったことに始まります。田中氏は学生横綱から保体審の理事にまで上り詰めた人物で、日大相撲部の発展に尽力しました。田中氏は保健体育局の庶務課長、事務局長を経て、校友会会長から理事へと登りつめていきました。田中氏は保体審をバックにつけて、日大の権力構造に影響力を持ちました。

田中氏が最も誇りに思っていた力士が輪島大士(本名・輪島功一)です。輪島は高校時代に国体で優勝した逸材でしたが、田中氏は彼に日大への入学を勧めました。田中氏は「日大に入っても角界入りできる」という条件を出し、輪島を誘いました。この条件は当時の教育基準法に違反していましたが、田中氏はそれを無視しました。

輪島は1966年に日大法学部に入学しましたが、授業に出席せず、相撲部の寮で稽古に励みました。1968年には日本相撲協会に入門し、1972年には大関に昇進しました。1973年には横綱に昇進し、その後、10回の優勝を果たしました。輪島はその華麗な取り口と派手な生活ぶりで人気を博しましたが、同時に多くのトラブルも起こしました。

輪島は日大在学中に角界入りしたことで、教育基準法違反や不正入学疑惑などの批判を受けましたが、田中氏はこれらをかばい続けました。田中氏は輪島を保体審の顔として利用し、自らの権力基盤を強化することに成功しました。田中氏は輪島の横綱昇進や優勝などの際には必ず祝福に駆けつけ、メディアの注目を集めました。また、田中氏は輪島のトラブルや不祥事などの際にも必ずフォローし、メディアや協会から守ろうとしました。

しかし、このような関係も長くは続きませんでした。1981年に輪島が引退した後、田中氏と輪島の間に確執が生じました。田中氏は輪島が引退後も日大相撲部や保体審と関わりを持つことを望んでいましたが、輪島はそれを拒否しました。輪島は田中氏に感謝の念を持っていましたが、同時に田中氏に束縛されていると感じていました。輪島は自分の人生を自分で決めることを望んでいました。

このようにして、日大保体審と輪島の関係は終わりを迎えました。田中氏はその後も日大の権力者として君臨しましたが、追われるように林真理子氏に理事長の席を明け渡しました。輪島はその後も相撲界や芸能界で活躍しましたが、2018年に死去しました。

これが、日大保体審と輪島の関係です。

不正入試の問題

不正入試とは、合格に必要な資格や実力を持たない者が、不正な手段で入学・入社することを指します。入試や就職における公正さと透明性の確保は、社会の信頼性を保つ上で非常に重要です。

不正入試は、一部の大学や企業に限った問題ではありません。実際に、多くの大学や企業において、内部の組織や人脈を利用して入試や就職に不正が行われているという現状があります。このような不正行為は、単なる倫理的な問題にとどまらず、社会における公正さや透明性を損ねるだけでなく、適正な才能の発掘や社会的地位の向上を妨げることにも繋がります。

保体審による不正入試は、特別推薦入試や一般入試で不正な加点や合格を行うことが多かったとされています。しかし、これらの手法だけが不正入試の全てではありません。実際に、入試問題の漏洩や外部の人物による代行受験、面接官とのコネクションを利用した合格など、様々な不正行為が存在します。

これらの問題に対しては、予防と取り締まりを強化すると共に、倫理的な観点からも公正な入試や就職の実現に向けて、社会的な議論や取り組みが必要となってきます。例えば、不正行為を告発する制度の整備や、入試や就職における透明性の確保、倫理教育の強化などが挙げられます。

また、今後は人工知能(AI)や大量データの活用による入試や就職のプロセスの自動化が進んでいくことが予想されます。しかし、その一方で、AIによる成績評価や面接採点の公正さや透明性に疑問が持たれることもあります。こうした問題に対しても、社会的な議論や取り組みが必要となります。

入試や就職における公正さと透明性の確保は、社会の信頼性を保つ上で非常に重要な課題です。これらの問題に対して、社会全体で取り組むことで、公正な入試や就職の実現に向けて、一歩一歩前進していくっしかありません。

日大は16学部87学科を擁し、。在籍学生は約7万4000人に及ぶ。

日本大学は、創立から約130年の歴史を持ち、日本の私立大学の中でも最も歴史が古い大学の一つです。日本大学は、その歴史を通じて、日本の社会・文化・経済の発展に大きな貢献をしてきました。日本大学は、その創立の精神である「自主自立」の理念を受け継ぎ、現在の教育理念である「自主創造」に基づき、学生たちに自己実現の機会を提供し、社会貢献を果たすことを目指しています。

日本大学は、学問の発展と社会のニーズに応えるために、多様な研究活動を行っています。日本大学は、16学部87学科を擁し、幅広い学問領域をカバーしており、学生たちは、自分の興味や関心、将来の目標に応じて、自由に学ぶことができます。また、多くの研究機関を有し、国内外の研究者との交流も盛んに行っています。

日大は、学生たちが自分らしい人生を歩むための基盤を作ることを目指して、多様な教育プログラムを提供しています。例えば、留学プログラムやインターンシップなど、海外での学びや社会経験を積む機会を提供しています。また、多様なスポーツや文化活動、ボランティア活動なども行っており、学生たちは、多様な人との交流を通じて成長することができます。

日大は、社会からの期待に応えるために、社会貢献活動にも積極的に取り組んでいます。例えば、地域の課題解決に取り組む「日本大学地域貢献プログラム」や、社会的企業家精神を育成する「日本大学起業家・イノベーションプログラム」など、多様な社会貢献プログラムを展開しています。

日大は、多様な学問領域をカバーし、学生たちの自己実現を支援する環境を提供しています。日本大学は、これからも時代のニーズに応えるために、柔軟で創造的な教育プログラムを提供し、社会に貢献する人材を育成していくことで、日本の未来を担う人材の育成に貢献していくと思われます。

まとめ

日本大学は、日本最大の私立大学として、多くの分野で優秀な人材を輩出してきました。しかし、近年は一連の不祥事により、その名声や信頼が大きく傷つけられました。日大は、その危機を乗り越えるために、新たな理事長として作家の林真理子氏を迎えました。

林真理子氏は、日大芸術学部出身でありながら、文学界やメディア界で活躍する多才な女性です。林氏は、日大の再生に向けて、不正を無くし、秩序を保ち、膿を出し切る厳しい判断を下すという強い決意を示しています。日大OBとして、私は林理事長を応援したいと思います。

まず、林氏は理事長として不正を無くすことに力を入れています。日大の不祥事の背景には、田中英寿元理事長の独裁的な統治がありました。田中氏は理事長に強い権限が集まる体制を作り上げ、自らの意に沿わない者は排除しました。田中氏は自分の権力基盤を強化するために、保健体育審議会(保体審)や校友会などの組織を利用しました。田中氏は保体審の顔として横綱・輪島大士(本名・輪島功一)を起用しましたが、輪島は日大在学中に角界入りしたことで教育基準法違反や不正入学疑惑などの批判を受けました。

林氏はこのような不正や不祥事について調査組織を改めて立ち上げる考えを表明しています。林氏は「(第三者委員会による)報告書を読んだが、本当にこれだけかなとの疑念を拭い去れなかった」と述べています。林氏は田中氏の影響力を排除できるかという質問に「サラリーマンがトップの意に沿うのは仕方ない。トップがいなくなったので、親田中派はもういないと信じている。いるとしたら反林派だが、会話を重ねるしかない」と語っています。

次に、林氏は日大の秩序を保つことにも注力しています。日大は1889年に創立された歴史ある私立大ですが、その規模や組織が複雑化しすぎています。日大は20学部・2短期大学部・18研究科・37校舎・約7万人の学生・約4万人の教職員・約100万人の卒業生を抱えています。日大はこれらの多様なステークホルダーの声を聞き、共通の理念や目標に基づいて運営する必要があります。

林氏はこのような秩序を保つために、透明性の高い人事制度の構築や内部通報制度の整備などの再発防止策を推進しています。林氏はまた、学生の意見を大学運営に生かす仕組みや信頼回復に向けた広報活動の強化も行っています。林氏は「新しい風が吹いている。議論活発化を確信した」と述べています。

さらに、林氏は日大の再生に向けて、膿を出し切る厳しい判断を下すことも必要だと考えています。日大は一連の不祥事により、そのイメージや信頼が大きく低下しました。日大はその影響で、学生や卒業生が胸を張れない事態に陥りました。日大はまた、文部科学省が事業団を通じ配分する私学助成金の交付も停止されました。日大は21年度と22年度分は全額不交付となり、約90億円の収入が減少しました。

林氏はこのような危機を乗り越えるために、厳しい判断を下すことも辞さないとしています。林氏は「私は総長ではなく理事長だから、経営面で厳しい判断を下すことができる」と述べています。林氏は「日大は規模が大きすぎる。学部や校舎の統廃合も視野に入れるべきだ」とも語っています。林氏は「日大の再生に向けて、一石二鳥ではなく一石三鳥くらいのことをしなければならない」と強調しています。

最後に、私は日大OBとして、林理事長を応援したいと思います。私は日大で多くのことを学び、多くの友人や恩師と出会いました。私は日大に感謝しており、日大が再び輝くことを願っています。私は林氏が日大の再生に向けて奮闘する姿に感動し、勇気づけられています。私は林氏が日本最大の私立大学としての日大の責任や使命を果たすことができると信じています。

私は日大OBとしてだけでなく、作家としても林氏を応援したいと思います。私は林氏の作品に影響を受けて文筆活動を始めました。私は林氏の作品に感動し、教養や知性を得ました。私は林氏が文学界やメディア界で活躍する多才な女性であることに尊敬や憧れを抱いています。

私だけでなく、日大の多くの学生や教職員、卒業生も林理事長を応援しています。林氏は日大の再生に向けて、多くの支持や協力を得ています。林氏は「日大は私一人では変えられない。日大に関わるすべての人が一丸となって変えていかなければならない」と述べています。林氏は「日大は私の母校でもある。日大に愛着を持つ人たちが一緒に頑張ってくれることを期待している」とも語っています。

林理事長は日大の再生に向けて、困難な道のりを歩んでいます。林氏は「私は総長ではなく理事長だから、経営面で厳しい判断を下すことができる」と述べていますが、その反面、「私は作家だから、教育面や文化面で柔軟な発想を持つことができる」とも述べています。林氏は「私は女性だから、感情的になることもあるかもしれないが、それも人間味だと思う」とも述べています。

林理事長は日大の再生に向けて、厳しさと柔軟さ、理性と感性をバランスよく持ち合わせたリーダーです。林氏は「日大は日本最大の私立大学としての責任や使命を果たすことができる」と信じています。林氏は「日大は再び輝くことができる」と確信しています。

私は日大OBとしても、作家としても、林理事長を応援します。そして、私だけでなく、日本全体が林理事長を応援するべきだと思います。林氏が率いる日大は、日本の教育や文化に貢献することができると期待しています。

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