第1位.平安時代の始まり 遷都『鳴くよ(794)、鶯、平安京』
平安時代は794年に始まりました。
この年に都が平安京(現在の京都)に移されたからです。
その理由は何でしょう?
実は、前の都(奈良)で政治を巧みに操る寺院勢力を避けるためだったのです。
えっ、そんなことがあったんですか?と驚くあなたも多いのではないでしょうか。
寺院勢力って、そんなに強かったんですね。
でも、平安京に移っても、寺院勢力は追いかけてきたんじゃないですか?
それとも、平安京には寺院がなかったんですか?気になるところですね。
◇ 平安京の寺社は?
奈良の寺々が取り残されて,平安京には寺社は締め出された状態でした。
その中で,都を守る場所に東寺と西寺がつくられます。
この東寺には、およそ30年後、空海の真言宗の寺が許されました。
◇ 理由は諸説あり
平安京への遷都の理由は、歴史家の間でも諸説あります。
- 道鏡をはじめとする仏教の影響力から遠ざかるため
- 桓武天皇は天智天皇系だったので、天武天皇系の奈良から離れるため
- 藤原一族などの在来貴族の影響を遠ざけるため
その他には、桓武天皇は早良皇太子の悪霊の悪霊を恐れ、完全な風水説に基づいた新しい都『平安京』を作り、そこに逃げ込んだと言う説も有名です。
第2位.女性美の象徴「白い肌」と「長い髪」
次に、平安時代の女性の美の象徴についてです。
現代とは異なり、当時の美の象徴は「白い肌」と「長い髪」でした。
特に、床に着くほどの長い髪は上品さの象徴とされていました。
白い肌と長い髪・・・それは確かに美しいですね。
でも、そのためにどれだけ苦労したことでしょう。
白い肌を保つためには日焼けを避けなければなりませんし、長い髪を整えるためには時間も手間もかかります。現代では考えられないような美容法もあったそうです。
例えば、髪を黒く染めるために煤や墨を使ったり、肌を白くするために鉛や水銀を塗ったり・・・。
これでは健康に悪そうですね。美しさの代償は高かったんですね。
◇ 平安時代での美人の基準
平安時代といえば、世界3大美女として語り継がれている小野小町が有名です。
キメの細かい白い肌やサラサラした艶のある髪などは現代でも好かれそうです。
- 切れ長の細い目
- キメの細かい白い肌
- ふっくらした頬
- サラサラした艶のある黒髪
- 体型もふくよか
- 大きな顔
- 鼻筋が通った小さな鼻
- おしとやかな口(おちょぼ口)
第3位.紫式部と源氏物語
第3位は、平安時代の文学です。
この時代には、紫式部による「源氏物語」が書かれました。これは世界最初の長編小説とも言われています。
また、紫式部は女性でありながら、当時の男性社会で活躍したことでも知られています。
源氏物語は有名ですね。私も読んだことがありますが、登場人物が多すぎて覚えられませんでした。
しかも、みんな同じような名前で呼ばれていますよね。光源氏という主人公も、実は光君や源氏君とも呼ばれていますし、他にも藤壺や明石や紫上という女性もいますが、これらは本名ではありません。
役職や出身地や特徴で呼ばれているだけなんですよ。
こんなにややこしい小説を書いた紫式部はすごいですね。
でも、どうしてこんなに複雑な物語を書いたのでしょうか?
もしかしたら、平安時代の貴族社会の複雑さを反映しているのかもしれませんね。
紫式部の歴史年表
西暦 | 和暦 | 齢 | 出来事 | 備考 |
973年 | 天延 元年 | 1歳 | 紫式部誕生 | 970年~978年まで諸説あり。 |
974年 | 2年 | 天延2歳 | 弟の惟規誕生 | 紫式部は、幼少期に惟規よりスムーズに漢籍を習得した。 | 惟規は紫式部の兄という説もあり
988年 | 永延 2年 | 14歳 | 藤原道長の娘、彰子が誕生 | |
992年 | 3年 | 正暦20歳 | 紫式部、具平親王家に仕える? | 紫式部と具平親王は恋仲だったという説もあり |
993年 | 正暦 4年 | 21歳 | この頃、清少納言が中宮定子に仕え始める | |
995年 | 元年 | 長徳23歳 | 藤原道隆(道長の弟)糖尿病で死去。 | |
996年 | 長徳 2年 | 24歳 | 父・為時が越前守となる。 紫式部も一緒に越前に下向する。 | 藤原伊周(定子の兄)の従者が花山法皇の袖を射る。伊周、太宰権帥に左遷。 中宮定子、自ら髪を切り出家。<道隆一族の没落> |
997年 | 3年 | 長徳25歳 | 藤原宣孝、越前の紫式部に手紙でアプローチ | |
998年 | 長徳 4年 | 26歳 | 晩秋、初冬の頃、紫式部、越前から帰京。 宣孝、紫式部に求婚。 | |
999年 | 長保元年 | 27歳 | 新春、40代後半の藤原宣孝と結婚。 | 定子、一条天皇の第一皇子・敦康親王を出産。 | 藤原道長の娘彰子が入内。
1000年 | 長保 2年 | 28歳 | 娘、賢子(かたいこ)を出産。 | 道長、彰子を中宮とする。(定子は皇后に)一帝二后の異常事態に。 定子、第二皇女出産後、死去。清少納言もこのころ、出仕を終える。 |
1001年 | 3年 | 長保29歳 | 夫・宣孝が疫病で亡くなる。約2年の結婚生活だった。 | この後、「源氏物語」の執筆が開始されたか。 |
1005年 | 寛弘 2年 | 33歳 | 「源氏物語」の評判を聞き、道長が紫式部をスカウト。 中宮彰子に仕える。 | |
1006年 | 3年 | 寛弘34歳 | 「源氏物語」を引き続き執筆? | いじめで実家に引きこもる。|
1008年 | 寛弘 5年 | 36歳 | この時期、「源氏物語」の大半が完成か。 | 中宮彰子、敦成親王(後一条天皇)を出産。 |
1009年 | 6年 | 寛弘37歳 | 中宮彰子、敦良親王(後朱雀天皇)を出産。 | |
1012年 | 長和元年 | 40歳 | 彰子が皇太后となる。紫式部は引き続き彰子に仕える。 | (藤原実資と彰子の取次役をしていた。) |
1014年 | 3年 | 長和42歳 | この頃、紫式部死去か。 | 1016年、1017年、1019年、1031年まで生きていたという説もあり。 |
1017年 | 長和 6年 | 没? | 紫式部の娘・賢子が母の後を継いで彰子に仕える。 |
第4位.平等院と鳳凰堂
第4位は、平安時代の建築についてです。
この時代に建てられた平等院鳳凰堂は、平安時代の美の象徴とも言えます。
現在でもその美しさは色褪せず、多くの観光客を引きつけています。
平等院鳳凰堂は、私も見たことがありますが、本当に美しいですね。その名前の通り、屋根には鳳凰の像が飾られていますし、壁には金箔が貼られています。
中には阿弥陀如来像が安置されていますが、これも金色に輝いています。
この建物は、平安時代の最後の皇帝である白河法皇が建立したものです。
なぜこんなに豪華な建物を作ったのでしょうか?
実は、白河法皇は出家して上皇となり、政治の実権を握っていました。
これを「院政」と呼びますが、このときに貴族文化が最盛期を迎えました。
平等院鳳凰堂は、その貴族文化の華やかさと権威を示すものだったのです。
第5位.陰陽師と式神
最後に、平安時代のオカルト的な話題、陰陽師と式神についてです。
陰陽師は、自然現象を予測し、災害を防ぐために活動していました。
また、式神という霊的な存在を使役するとされ、その存在は現代のアニメやマンガにも影響を与えています。
陰陽師と式神・・・それはちょっと怖いですね。でも、興味深いですね。
陰陽師はどうやって式神を使役したのでしょうか?
実は、陰陽師は紙や木片などに呪文や絵を書き込んで式神を呼び出したり、動物や人形などに霊力を込めて式神に変えたりしたそうですよ。
これらの方法は、「紙媒体」と「生媒体」と呼ばれますが、どちらもかなり怖そうですね。
でも、これらの式神は陰陽師に忠実であり、悪用されることはありませんでした。
それどころか、式神は国家や人々の平和を守るために活躍したと言われています。
第6位.平安時代の女性の服装
平安時代の服装 平安時代の貴族は、色とりどりの十二単を着用していました。
これは、12枚の衣服を重ねて着るという、非常に豪華な服装です。
色や素材は季節や場所によって変わり、その組み合わせは非常に繊細でした。
十二単は、貴族の身分や性別、年齢などを表す重要な役割も果たしていました。
例えば、女性の場合は、袖の長さや裾の色などで既婚か未婚かを見分けることができました。
また、十二単の色は、五行思想や陰陽五行説に基づいて決められていました。
そのため、十二単は、貴族の美意識だけでなく、哲学や宗教の影響も受けていたのです。
第7位.平安時代の食事
平安時代の食事 平安時代の食事は、現代の日本料理とはかなり異なっていました。
肉食が一般的で、鶏肉や鹿肉などがよく食べられていました。
また、魚や野菜も豊富に摂られ、バランスの良い食事がとられていたと言われています。
平安時代の貴族の食事は、朝食、夕食の二食制で、一日に約10品程度の料理が出されていました。
主な調味料は、「酒、酢、塩、醤」の4種類で、これを「四種器」(ししゅのもの)と呼びました。
各自の膳の上に置かれており、自分で好みの味付けをして食べていました。
食器や食卓の配置も、季節や行事に応じて変えられていました。
食事作法も厳しく求められていました。
◇ 宴会料理の見かけは超豪華だった
宮中や、貴族の屋敷で開かれる宴会では、大盤に沢山の料理を盛った、豪華な大饗料理が出ました。
しかし、これは、生もの化、干物に、塩やす酢をつけて食べるという、ダイナミックな古典料理で、美味ではなかかったようです。つまり、食べるためというより、主催者の力を示すための料理でした。
◇ 紫式式部の好きな料理は 庶民に人気の鰯(貴族からは不人気
紫式部の好物は、昔から日本人には馴染みが深い青魚の代表マイワシと言われています。
イワシは多く獲れる魚であり、また鮮度が落ちるのも早いため、奈良時代や平安時代頃には、貴族をはじめとして身分の高い人々は口にするものではないとされ、下賤な魚として扱われていました。
「イワシが大好物の紫式部は、夫・藤原宣孝の留守中に部屋の中でこっそり焼いて食べたところ、帰宅した夫がこもったイワシの臭いに気付き、下世話な物好きと咎められた。」紫式部はすぐさま、『日の本に はやらせ給ふ 岩清水 まゐらぬ人は あらじとぞおもふ』(日本で流行している《いわし》水八幡宮に参らない人がいないように、こんなにおいしいイワシを食べない人などいませんよ)と切り返したという。
◇ 鰯の歴史
イワシはその骨が貝塚から複数発見されていることから、縄文時代にはすでに食べられていました。
奈良・平安時代には、タイやカツオなどと共に、イワシの干物も貢物として献上されていたようですが、身分の高い人はそれを口にせず、下級役人などが食べていました。
大量に捕れて安価であったイワシは、庶民の食事のたんぱく源としても広く食されるようになります。
第8位.平安時代の遊び
平安時代の遊び 平安時代の貴族たちは、さまざまな遊びを楽しんでいました。
詩歌や音楽、舞踊はもちろん、囲碁や将棋などのボードゲームも人気でした。
鳥獣戯画のような絵画も楽しまれていました。
詩歌は、貴族の教養や感性を表すものとして重視されており、和歌や漢詩などを詠んだり、歌合や詩合などの競技会に参加したりしていました。
音楽や舞踊は、神仏への奉納や宮中の儀式などで披露されており、雅楽や舞楽などが有名です。
囲碁や将棋は、知力や戦略を競う遊びとして楽しまれており、特に将棋は、平安時代に日本に伝わったと言われています。
絵画は、貴族の趣味や娯楽として発展して風景や人物、動物を描いては絵巻物を作ったりしていました。
第9位.平安時代の教育
平安時代の貴族の子供たちは、幼少期から厳しい教育を受けていました。
詩歌や歴史、法律、経済など、幅広い知識を身につけることが求められていました。
また、書道や絵画などの芸術も重要視されていました。
教育の方法は、主に家庭教育と寺院教育がありました。
家庭教育は、親や親戚、家臣などが子供に教えるもので、家の伝統や家柄を重んじるものでした。
寺院教育は、寺院に住む僧侶や学者が子供に教えるもので、仏教や漢文などを学ぶものでした。
教育の目的は、貴族としての資質や能力を高めることや、政治や社会に貢献することでした。
第10位.平安時代の宗教
最後に、平安時代の宗教についてです。
この時代は、仏教が広く信仰されていました。
特に、阿弥陀仏を信仰する浄土信仰が広まり、多くの寺院が建立されました。
浄土信仰は、この世は苦しみの世界であると考え、阿弥陀仏の救済を願って、死後に極楽浄土に往生することを目指すものでした。
平安時代は、天災や内乱などの不安や危機が多かったため、浄土信仰は多くの人々に受け入れられました。
また、仏教は、貴族の政治や文化にも大きな影響を与えており、仏教の儀式や寺院の建築、仏像や仏画などが盛んに行われました。