平安時代は、日本独自の文化が花開いた時代です。華やかな唐風から優美な国風へと文化の趣が変わり、日本固有のかな文字が発展し、和歌や物語のかな文学が生まれました。その中で、女性の手によって優美で上品な日本美人が描かれたのが、紫式部の『源氏物語』や清少納言の『枕草子』などの名作です。これらの作品に登場する貴族の女性たちは、どのようにして美しさを保ち、魅力を発揮していたのでしょうか。平安時代の髪型、お化粧、服装について、六つの段落に分けてご紹介します。
垂髪―長く豊かな黒髪の美しさ
平安美女の第一条件と言えば、丈なす黒髪です。長い豊かな黒髪を扇のようにひろげた様子が美しいと讃えられていました。その長さと言うと、『源氏物語』に登場する末摘花の髪の長さは、衣よりさらに一尺、つまり背丈より30cm長いとあります。顔や肌の白さを引き立てるために漆黒の髪は欠かせないものであったのでしょう。
しかし、美人の条件である黒髪は、長いだけでなく艶やかな黒髪でなければなりませんでした。では、平安貴族の女性たちは、どのように長い髪の手入れをしていたのでしょうか。もちろん、シャンプーなどはありませんでした。「ゆする」(米のとぎ汁)や「灰汁」(灰を溶かした水の上澄み)を洗髪料として洗っていました。
大変手間のかかる洗髪はたまにしか出来なかったので、通常の手入れは、「ゆする」をつけて櫛で髪をすいていました。それも三日に一度という平安時代の記述もあります。宮廷のお姫様は、超ロングヘアを美しくキープするために大変な努力をしていたのですね。
十二単―色鮮やかな絹の衣装の美しさ
平安貴族の女性たちは、寝殿造という、部屋の中は昼でも薄暗い大きな屋敷に生活していました。そうした環境に映える、色鮮やかな絹の衣装を何枚も重ねた十二単に身をつつみ、服のボリュームに合わせるように、垂髪という黒髪を長くまっすぐに伸ばしたヘアスタイルが代表的なファッションです。
十二単とは、上から順に、小袖、赤小袖、袿、直衣、緋袴、表着、裳、袴、重ね、襲、唐衣、大衣の12枚の衣装のことです。色や柄は季節や場面によって変えられ、重ね合わせた際に見える色の組み合わせを「色目」と呼んでいました。
色目には、紫式部の名前の由来となった「紫式部色目」や、清少納言が好んだ「藤壺色目」など、有名なものが多くあります。十二単は、一枚一枚が大きくて重く、着付けには何人もの女房が必要でした。また、十二単を着ると、動きにくくなるため、宮廷の女性はほとんど外出せず、屋敷の中で過ごすことが多かったのです。
白粉―白い肌の美しさ
平安時代は、大陸から伝わった白粉化粧の目的となる「美人=白い肌」という美人観が、貴族文化の審美観として定着していった時代です。それはどのように根付いていったのでしょうか。中国の文学にその答えがあります。奈良から平安の時代には、貴族にとって大陸文化の習得は必要な学識でした。
漢詩を読み、親しむことが一般教養となっていたのです。唐の漢詩には楊貴妃などの女性の美しさが讃えられ、その描写のなかで、白い肌は美人の条件とされていました。こうした漢詩の表現から、貴族たちは「白い肌=美人」という概念を学び、自分たちの審美観ともしていったのです。
なぜ白い肌が美しさの価値となったか?にはいくつか説があります。代表的なのは、戸外の労働をしない日やけのない肌は、高い身分の象徴となったという説です。他には、「皮下脂肪」で透明感をもった肌は、成熟した女性を想起させ好ましく思われたなどの説もあります。いくつかの理由が重なって、白い肌は、女性的な美しさ、高貴なものへのあこがれ、美人の象徴となったのではないでしょうか。
また、当時の住環境も白い肌美観を形成する上で重要なファクターとなったと考えられます。宮廷の女性が生活する大きな屋敷の中は、昼も夜も現代と比べたら、とても暗かったと想像できます。昼でも日の光が差し込まない、夜は乏しい灯りの生活空間では、真っ白に塗った白粉化粧でこそ、肌はキレイに引き立って見えたことから白粉化粧は、顔だけでなく首や手にも塗られました。
しかし、白粉は水に溶けやすく、汗や雨で落ちてしまうことがありました。そのため、白粉を塗った部分を隠すように、衣服や髪飾りを工夫して着用することが多かったのです。例えば、十二単という重ね着の衣装は、白粉を塗った首元を隠すために、襟を高く立てたり、襷をかけたりしていました。また、垂髪という長い髪の髪型は、白粉を塗った額や耳を隠すために、前髪を長く垂らしたり、耳飾りをつけたりしていました。白粉化粧は、衣服や髪型とともに、平安時代の女性の美しさを演出する要素となっていたのです。
白粉化粧は、平安時代の貴族文化の象徴として、多くの文学作品にも登場します。『源氏物語』や『枕草子』などの名作には、白粉化粧にまつわるエピソードや描写が数多く見られます。白粉化粧は、女性の美しさだけでなく、恋愛や結婚、死別などの人生の喜怒哀楽を表現する手段としても使われていました。例えば、『源氏物語』の「夕顔」の巻では、光源氏が夕顔の死を知ったときに、彼女が残した白粉の跡を見て、彼女の愛情や悲しみを感じる場面があります。白粉化粧は、平安貴族の女性たちの美しさだけでなく、感性や感情も表現する重要な化粧品であったのです。
紅―小さく口元にさし、頬にも紅を施す
白粉化粧で顔を白く塗った後、紅花の紅で口元や頬に色をつけるのが平安時代のメークの基本でした。紅は、唇の中央に小さくさし、頬にはぼかしてつけるのが一般的でした。
紅の色は、季節や場面によって変えられ、淡い色から濃い色までさまざまな色がありました。紅の色は、『源氏物語』などの文学作品にもよく登場し、女性の感情や心情を表現する手段としても使われていました。
例えば、『源氏物語』の「夕顔」の巻では、光源氏が夕顔の死を知ったときに、彼女が残した紅の色を見て、彼女の愛情や悲しみを感じる場面があります。紅は、平安貴族の女性たちの美しさだけでなく、感性や感情も表現する重要な化粧品であったのです。
眉化粧―生来の眉を抜いて眉墨で描く
平安時代の化粧のもう一つの特徴は、眉化粧です。飛鳥・奈良時代の眉を形づくるメークから、日本独自の眉メークへと変わりました。生来の眉をすべて抜いて白粉を塗った上に、眉墨で自分の眉の少し上くらいの位置に別の眉を描く眉化粧をするようになったのです。
『源氏物語』の中にも、「歯黒めも、まだしかりけるを、ひきつくろはせ給へれば、眉のけざやかになりたるも、美しう清らなり」(お歯黒はまだだが、眉を抜いて眉墨を引いたので、ぱっちりとなったのが美しい)と記述されています。宮廷の女性は、貴族の化粧としてこのような眉化粧を行うようになったのです。
何故、全く別のところに眉を描く化粧が生まれたのか、はっきりとしたことは分かっていませんが、一説には眉は感情が強く表れるところ。額に描いた眉なら、感情につれて動くようなことがないので穏やかで高貴な雰囲気になるという美意識があったようです。
また、中国文化の影響から白粉を始めたのだろうが、当時、眉毛を抜いたり剃り落としたりする「引き眉(ひきまゆ)」という習慣があった。 これは表情を読まれないためというよりも、眉毛のせいで白粉が浮くことを防ぐのが主な目的だったようです。
お歯黒―歯を黒く染める
お歯黒は、涅歯(でっし)、鉄漿(かね)などと書かれ、五倍子粉(ふしのこ)とお歯黒水を用いて歯を黒く染めます。平安時代には、前述の『源氏物語』に「歯黒めも、まだしかりけるを」とあるように、お歯黒は眉化粧とともに、宮廷など上流階級では、女性が十歳前後になると成人のしるしとなる通過儀礼として慣習化していきます。
お歯黒は、歯を虫歯や歯石から守る効果もあったと言われていますが、主に美的な理由で行われていました。白粉で白く塗った顔に、白い歯が映えると不自然に見えるという考えがあったようです。
また、歯を黒くすることで、唇の紅がより際立つという効果もあったと言われています。お歯黒は、平安時代末期になると公家の男性も行うようになり、化粧は高い身分や階級を示す象徴としての意味を持つようにもなっていったのです。
平安時代のよそおい文化のまとめ
以上、平安時代の髪型、お化粧、服装について六つの段落に分けてご紹介しました。平安時代は、日本独自の美しさの基礎が築かれた時代であり、その美しさは、現代にも受け継がれています。NHK大河「光る君へ」に登場する貴族の女性たちの美しさを、ぜひお楽しみください。
平安の美女のたたずまい
白粉で顔を真っ白に塗り、紅で小さく口元にさし、頬にもぼかして色をつけた彼女は、十二単の色鮮やかな衣装に身を包んでいました。
彼女の髪は、垂髪という長い髪型で、前髪を長く垂らし、耳飾りをつけて、髪は、ゆするや灰汁で洗って、艶やかな黒髪です。
彼女の眉は、生来の眉をすべて抜いて、白粉を塗った上に、眉墨で自分の眉の少し上くらいの位置に別の眉を描きました。眉は、感情につれて動くようなことがないように、穏やかで高貴な雰囲気になるようにしていました。
彼女の歯は、お歯黒で黒く染めていました。お歯黒は、五倍子粉とお歯黒水を用いるお化粧法です。歯を黒くすることで、唇の紅がより際立ちました。