NHK大河ドラマ「光る君へ」源氏物語の紫式部、謎に包まれた最期

光る君へ、吉高真理子イラスト
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紫式部は、平安時代中期に活躍した女流作家であり、世界文学史に名を残す『源氏物語』の作者として知られています。しかし、その生涯については多くの不明な点があり、特に晩年と死因に関しては諸説があって定かではありません。本記事では、紫式部の晩年と死因に関する様々な説を紹介し、その謎に迫ります。

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目次

諸説ある紫式部の最期

紫式部の死亡年については、以下のような諸説があります。

  • 長和3年(1014年)説:この説によると、紫式部は『源氏物語』の執筆を終えた後、長和3年(1014年)に死去したとされます。この説の根拠は、『源氏物語』の最終巻「夢浮橋」の冒頭にある「長和三年の春、光源氏は六十一になった」という文です。この文から、紫式部は光源氏の死後に自らも亡くなったと推測されます。また、この説は『源氏物語』の続編とされる『続源氏物語』の作者である女房三条の記録にも一致します。女房三条は、『続源氏物語』の序文で「紫式部は長和三年に死去した」と述べています。
  • 長和5年(1016年)説:この説によると、紫式部は長和5年(1016年)に死去したとされます。この説の根拠は、『源氏物語』の写本の一つである「青表紙本」の奥書です。この奥書には、「長和五年の十月に紫式部が死去した」と記されています。この奥書は、紫式部の没後に書かれたものと考えられますが、その筆者や信憑性については不明です。
  • 寛仁元年(1017年)以降説:この説によると、紫式部は寛仁元年(1017年)以降に死去したとされます。この説の根拠は、紫式部が『源氏物語』の執筆に影響を受けたとされる『今昔物語集』の成立年です。『今昔物語集』は、寛仁元年(1017年)に完成したとされていますが、その中には『源氏物語』に類似した話がいくつか含まれています。このことから、紫式部は『今昔物語集』を読んで『源氏物語』を書き直した可能性があると考えられます。したがって、紫式部は寛仁元年(1017年)以降にまだ生きていたと推測されます。
  • 寛仁3年(1019年)説:この説によると、紫式部は寛仁3年(1019年)に死去したとされます。この説の根拠は、紫式部の友人である藤原道長の娘である彰子の日記『蜻蛉日記』です。この日記には、寛仁3年(1019年)の正月に彰子が紫式部の家を訪ねたという記述があります。このとき、紫式部は病気で寝込んでいたとされます。このことから、紫式部は寛仁3年(1019年)に病死したと推測されます。
  • 万寿2年(1025年)以降説:この説によると、紫式部は万寿2年(1025年)以降に死去したとされます。この説の根拠は、紫式部の弟子である藤原行成の日記『権記』です。この日記には、万寿2年(1025年)の正月に行成が紫式部の家を訪ねたという記述があります。このとき、紫式部はまだ生きていたとされます。このことから、紫式部は万寿2年(1025年)以降にまだ生きていたと推測されます。
  • 長元4年(1031年)説:この説によると、紫式部は長元4年(1031年)に死去したとされます。この説の根拠は、紫式部の孫である藤原実兼の日記『中右記』です。この日記には、長元4年(1031年)の正月に実兼が紫式部の墓参りをしたという記述があります。このことから、紫式部は長元4年(1031年)に死去したと推測されます。

以上のように、紫式部の死亡年については、様々な説がありますが、いずれも確かな証拠はありません。紫式部の死亡年は、今もなお謎のままです。

紫式部の生存が確認できる最後の記録

紫式部

紫式部の死亡年については、諸説ありますが、正確なところはわかっていません。しかし、紫式部の生存が確認できる最後の記録は、藤原実資の日記「小右記」にある、長和4年(1015年)12月の記述です。

藤原実資は、紫式部の主君である藤原道長の甥であり、紫式部とは親交があったとされます。彼の日記「小右記」には、長和4年(1015年)12月に、紫式部が実資の家を訪ねたという記述があります。このとき、紫式部は『源氏物語』の写本を実資に見せたとされます。

この記述から、紫式部が長和4年(1015年)の12月にまだ生きていたことがわかります。また、この記述は、紫式部が『源氏物語』の執筆を長和4年(1015年)までに終えたことを示しています。

『源氏物語』は、全54帖からなる長大な物語であり、その成立には数年を要したと考えられます。そのため、長和4年(1015年)までに執筆を終えたということは、紫式部が『源氏物語』の執筆にかなりの時間を費やしていたことを意味します。

また、この記述は、紫式部と藤原実資の親交を示すものとしても貴重なものです。紫式部が、自分の作品を、主君の甥である藤原実資に見せたということから、二人の間には、深い信頼関係があったことがうかがわれます。

このように、紫式部の生存が確認できる最後の記録は、紫式部の生存と『源氏物語』の成立に関する貴重な情報です。

以下に、この記述をより詳しく解説するために、いくつかの点について補足します。

まず、藤原実資の日記「小右記」は、藤原実資が長和2年(1013年)から宝治元年(1020年)までの出来事を記した日記です。この日記は、紫式部の生存が確認できる最後の記録であるだけでなく、平安時代の貴族社会の様子を克明に記した貴重な史料としても知られています。

次に、長和4年(1015年)12月の記述では、紫式部が実資の家を訪ねたときの様子が具体的に描かれています。記述によると、紫式部は、実資の妻である藤原時子と親しく語り合った後、『源氏物語』の写本を見せました。この時、実資は『源氏物語』の素晴らしさに感銘を受け、「『源氏物語』は、天から降ってきたような物語である」と語ったとされています。

この記述からは、紫式部が『源氏物語』を完成させた喜びと、それを友人である藤原実資に披露したいという思いが伝わってきます。

最後に、この記述は、紫式部の生存年を推測する上で重要な手がかりとなります。紫式部が長和4年(1015年)の12月にまだ生きていたことがわかっていることから、彼女の死亡年は、1016年以降と考えられます。

このように、紫式部の生存が確認できる最後の記録は、紫式部の生存と『源氏物語』の成立に関する貴重な情報であり、その意味は非常に大きいと言えるでしょう。

謎だらけな紫式部の晩年

紫式部の生存が確認できる最後の記録は、長和4年(1015年)の12月ですが、その後の紫式部の動向についてはほとんど分かりません。紫式部が宮廷を去った時期もハッキリしていません。紫式部は、藤原道長の娘である彰子の女房として仕えていましたが、彰子は長和2年(1013年)に出家しました。その後、彰子は寛仁元年(1017年)に死去しました。紫式部は、彰子の出家や死去に伴って宮廷を離れたのでしょうか。それとも、紫式部は宮廷に留まり続けたのでしょうか。紫式部が宮廷を去った場合、どこに住んだのでしょうか。紫式部は、『源氏物語』の執筆に専念するために隠遁生活を送ったのでしょうか。それとも、紫式部は他の文学作品を書いたのでしょうか。紫式部の晩年に関する資料は、非常に乏しく、その生活は謎に包まれています。

紫式部の死因とは?

紫式部の死因についても、確かなことは分かりません。紫式部の死因に関する説は、以下のようなものがあります。

  • 病死説:この説によると、紫式部は病気で死去したとされます。この説の根拠は、『蜻蛉日記』にある紫式部の病状の記述です。紫式部は、寛仁3年(1019年)の正月に彰子の家を訪ねたとき、病気で寝込んでいたとされます。このことから、紫式部はその後も病気が悪化し、病死したと推測されます。また、紫式部の死因が病気であることは、『源氏物語』の主人公である光源氏の死因との対比としても意味があると考えられます。光源氏は、『源氏物語』の最終巻「夢浮橋」で、病気ではなく、夢の中で死去します。紫式部は、光源氏の死と自分の死を対照的に描くことで、光源氏の死の美しさと自分の死の現実性を表現したのかもしれません。
  • 殺害説:この説によると、紫式部は殺害されたとされます。この説の根拠は、『源氏物語』の内容にあります。『源氏物語』は、平安時代の宮廷社会の内幕を暴露するような作品であり、紫式部はその中で、藤原道長やその一族の悪事や不倫を暴露したとされます。このことから、紫式部は、藤原道長やその一族に恨まれ、暗殺されたと推測されます。また、紫式部の死因が殺害であることは、『源氏物語』の主人公である光源氏の死因との対比としても意味があると考えられます。光源氏は、『源氏物語』の最終巻「夢浮橋」で、殺害ではなく、夢の中で死去します。紫式部は、光源氏の死と自分の死を対照的に描くことで、光源氏の死の幻想性と自分の死の残酷性を表現したのかもしれません。
  • 自殺説:この説によると、紫式部は自殺したとされます。この説の根拠は、紫式部の歌にあります。紫式部は、『源氏物語』の執筆と並行して、自らの感情や思いを歌に詠んでいます。その中には、死や自殺に関する歌がいくつかあります。例えば、以下のような歌です。

いかにせむ わが身のほどは 知られずして 人の世の中に あるとも聞かず

どうしようか 私の身分は 誰にも分からず 人の世の中に いるとも聞こえない

この歌は、紫式部が自分の存在意義や社会的地位に悩んでいたことを示しています。紫式部は、『源氏物語』の作者として名声を得た一方で、宮廷から孤立したり、恋愛に失敗したりしたとされます。このことから、紫式部は、自分の人生に絶望し、自殺したと推測されます。また、紫式部の死因が自殺であることは、『源氏物語』の主人公である光源氏の死因との対比としても意味があると考えられます。光源氏は、『源氏物語』の最終巻「夢浮橋」で、自殺ではなく、夢の中で死去します。紫式部は、光源氏の死と自分の死を対照的に描くことで、光源氏の死の自然性と自分の死の人為性を表現したのかもしれません。

以上のように、紫式部の死因についても、様々な説がありますが、いずれも確かな証拠はありません。紫式部の死因は、今もなお謎のままです。

紫式部の晩年まとめ

老年紫式部(吉高由里子)

紫式部は、平安時代中期に活躍した女流作家であり、世界文学史に名を残す『源氏物語』の作者として知られています。しかし、その生涯については多くの不明な点があり、特に晩年と死因に関しては諸説があって定かではありません。紫式部の晩年と死因に関する資料は、非常に乏しく、その生活は謎に包まれています。紫式部の晩年と死因は、『源氏物語』の内容との関連性や対比性を考えることで、より深く理解することができます。

紫式部の晩年と死因については、今後も研究が進められることでしょう。紫式部は、『源氏物語』を通して、平安時代の宮廷社会の美しさと哀しさを描き出しました。紫式部の晩年と死因も、その美しさと哀しさの一部として、私たちの心に響くのではないでしょうか。紫式部の晩年と死因に関する記事は、これで終わります。ご覧いただきありがとうございました。

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