『どうする家康』秀吉の朝鮮出兵を止められなかった家康の苦悩とは

家康の苦悩
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序章

NHK大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康の生涯を描く歴史ドラマです。家康は、戦国時代から江戸時代にかけて活躍した武将であり、日本の統一と幕藩体制の確立に大きく貢献しました。しかし、その道のりは決して平坦ではありませんでした。家康は、織田信長や豊臣秀吉といった天下人と対峙しながら、自らの立場と野望を守るために、さまざまな苦悩や葛藤を抱えていました。

ドラマでは、新しい歴史解釈を取り入れながら、家康の人間性や思想を掘り下げています。第38回「唐入り」では、天下統一を果たした豊臣秀吉が、明国の征服を次なる目標に掲げて、諸大名を肥前名護屋城に集結させた様子が描かれました。朝鮮への出兵が開始されると、秀吉自らも渡航すると言い出したため、家康は何とか止めようとしました。しかし、秀吉は聞く耳を持ちませんでした。このブログでは、このエピソードについて、秀吉の海外戦略や心情、家康の苦悩や決断などを分析してみたいと思います。

秀吉の海外戦略とは

秀吉は、天下統一を果たした後も、さらなる野望を抱いていました。それは、明国の征服でした。明国は、当時の東アジアで最大の勢力を誇る国であり、日本とも貿易や外交を行っていました。しかし、秀吉は明国に対して服属を求める書状を送りました。そのために経由地となる朝鮮にも同様に服属を命じましたが、朝鮮はこれを拒絶しました。そこで秀吉は、まずは朝鮮に攻め入ることにしました。

秀吉は2度にわたって朝鮮への出兵に踏み切りました。1度目の朝鮮出兵を「文禄の役」(1592~1593年)、2度目を「慶長の役」(1597~1598年)と呼びます。文禄の役では、日本軍は朝鮮半島を南から北へと急速に進撃しましたが、明国が援軍を送ってきたことで足止めされました。和議交渉が行われる中で一時休戦となりましたが、決着はつきませんでした。慶長の役では、日本軍は再び朝鮮半島に上陸しましたが、明・朝鮮連合軍の抵抗や海賊の襲撃に苦戦しました。秀吉の死去に伴って和議が成立し、日本軍は撤退しました。

秀吉の朝鮮出兵は、日本にとっても明・朝鮮にとっても大きな犠牲を払う戦争となりました。日本側は約20万人、明・朝鮮側は約30万人の死者を出しました。また、朝鮮では多くの文化財や人材が失われました。秀吉の野望は、結局は実現することなく終わりました。

我が子と弟をなくした秀吉の不幸

秀吉が海外への野望に火をつけたのは、自分の家族を次々と失ったことも影響しているかもしれません。秀吉には、正室の高台院(おね)と側室の淀殿(茶々)からそれぞれ一人ずつ子供が生まれました。高台院からは、1589(天正17)年に長男の秀頼が、淀殿からは、1591(天正19)年に次男の鶴松が生まれました。しかし、鶴松はたった3歳で夭折してしまいます。秀吉は大きなショックを受けました。

ドラマでは、鶴松が亡くなった後、秀吉が呆然としながら「次は……何を手に入れようかの?」と口にしている様子が描かれています。この言葉からは、秀吉が自分の人生に対する目的や意味を見失っていることが感じられます。天下統一を果たした後も、秀吉は自分の存在価値を確かめるために、さらなる野望を抱くようになりました。

しかし、鶴松を亡くしたことだけが秀吉の不幸ではありませんでした。同じ年に、弟の豊臣秀長も病気で亡くなっています。秀長は、兄の秀吉に次ぐ重臣であり、内政や外交においても大きな役割を果たしていました。秀長は、兄弟仲も良く、秀吉からも信頼されていました。しかし、1591(天正19)年に郡山城で52歳で病死しました。

秀長を亡くしたことは、秀吉にとって大きな打撃でした。秀長は、秀吉の暴走を止めることができる数少ない人物でした。秀長が存命であれば、朝鮮出兵を止めることはできなくても、早期に撤退するように進言したかもしれません。しかし、秀長がいなくなったことで、秀吉の周りには機嫌を取り、そそのかす者ばかりが残りました。秀吉は孤独になり、自分の思い通りに行動するようになりました。

秀吉の暴走を止めたのは誰?

そんな秀吉の暴走を止めようとしたのは、徳川家康でした。家康は、織田信長や豊臣秀吉といった天下人と対峙しながら、自らの立場と野望を守るために、さまざまな苦悩や葛藤を抱えていました。家康は、秀吉に従って関東に移りましたが、その後も秀吉からの圧力や疑念を受け続けました。秀吉は、家康が関東で勢力を拡大することを警戒していました。また、家康は、秀吉の朝鮮出兵に対しても消極的でした。家康は、朝鮮出兵に参加することで自分の領地を離れることや、無駄な戦争に巻き込まれることを嫌っていました。しかし、秀吉の命令に背くことはできませんでした。そこで家康は、どうすれば朝鮮出兵を回避できるかを考えました。

家康は、秀吉に対して「海を渡って戦いたい」と申し出ています。これは、家康が本当に海外への野望を持っていたのではなく、秀吉の気分を宥めるための方便だったと考えられます。家康は、自分が海外へ行くことに熱心なふりをすれば、秀吉も自分に対して不信感を抱かないだろうと思ったのです。また、家康は、自分が海外へ行くことに同意すれば、他の大名もそれに従わざるを得ないだろうと考えました。そうすれば、他の大名も自分と同じように朝鮮出兵に参加することで苦労することになります。家康は、他の大名が自分よりも不利な立場になることで、自分の有利な立場を保とうとしたのです。

しかし、家康は、実際に海外へ行くつもりはありませんでした。家康は、秀吉が自ら渡航すると言い出した時に、「どうしても参られるのであれば、この家康、ここで腹を切りまする!」と言って涙を流しました。これは、家康が自らの命を賭けて秀吉を止めようとした姿勢を示したものです。しかし、これもまた家康の方便だったと考えられます。家康は、自分が切腹するふりをすれば、秀吉も自分に対して申し訳なく思って渡航をやめるだろうと思ったのです。また、「殿下(秀吉)のお代わりは殿下しかおりませぬゆえ」と言って、秀吉が万一何かあったら日本が混乱することを暗示しました。家康は、秀吉が日本からいなくなることで自分が有利になることを期待していたかもしれませんが、それを表に出すことはできませんでした。家康は、秀吉に対して忠誠心を見せることで、自分の立場を守ろうとしたのです。

結局、秀吉は、家康の涙に動かされて渡航を延期しました。しかし、その後も秀吉は渡航の準備を続けました。秀吉は、自分の母である大政所の葬儀のために京都に戻りましたが、その後も再び九州の名護屋に行きました。そこで秀吉は、後陽成天皇から渡航を止める手紙を受け取りました。この手紙は、後陽成天皇が秀吉に対して親しみや不安を表したものでした。後陽成天皇は、秀吉が日本からいなくなることに恐れを感じていました。秀吉は、この手紙に感動して渡航をやめることにしました。しかし、その直後に秀吉は病気で亡くなりました。

まとめ

このブログでは、NHK大河ドラマ『どうする家康』における秀吉の朝鮮出兵と家康の苦悩について分析しました。秀吉は、天下統一を果たした後も、明国の征服というさらなる野望を抱きました。しかし、その野望は、自分の家族や弟を失ったことや、明・朝鮮連合軍の抵抗や海賊の襲撃などによって挫折しました。家康は、秀吉に従って関東に移りましたが、その後も秀吉からの圧力や疑念を受け続けました。家康は、朝鮮出兵に参加することを嫌っていましたが、秀吉の命令に背くことはできませんでした。そこで家康は、方便や涙や言葉で秀吉を止めようとしました。しかし、最終的に秀吉を思いとどまらせたのは、後陽成天皇からの手紙でした。

このエピソードからは、秀吉と家康の人間性や思想が見えてきます。秀吉は、自分の野望を実現するためには手段を選ばない強引な人物でしたが、同時に自分の家族や弟への愛情や孤独感も持っていました。家康は、自分の立場と野望を守るためには慎重かつ巧妙な人物でしたが、同時に自分の命や日本の安定も大切にしていました。この二人の対比は、日本史上最大の戦国武将として興味深いものです。

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