NHK大河ドラマ「光る君へ」紫式部に学ぶ平安時代の女性の教養とおしゃれ

光る君へ、吉高真理子イラスト
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目次

平安時代の女性のおしゃれ 衣装編

吉高由里子
出典元:Drama&Move

⑴ 朝服(ちょうふく)

平安時代の朝服は、朝廷での儀式や公式の場に着用される非常に格式の高い装束でした。これらの衣服は、季節や行事、身分に応じて異なる色や素材で構成されており、豪華さと繊細さが特徴です。たとえば、春には桜色や淡い緑色の布を用い、秋にはもみじの色を思わせる赤や茶色が選ばれるなど、季節感を色彩で表現していました。また、朝服は重ね着の文化が特徴であり、多数の衣服を重ねて着用することで、豊かな色の層を作り出していました。

平安

⑵ 肌着

平安時代の女性の肌着には、肌襦袢、裾よけ、長襦袢などがあります。これらの肌着は、直接肌に触れるものとして、快適さを追求しつつ、美しさも重視されていました。肌襦袢は柔らかい素材で作られ、肌触りが良く、裾よけは衣服の裾部分が直接肌に触れないようにする役割を果たしていました。長襦袢は、外着としての役割も果たし、見える部分には細かな刺繍や装飾が施されていました。これらの肌着一つ一つにも、平安時代の精緻な美意識が反映されているのです。

⑶ 女房装束と「かさね」

平安

女房装束は、色とりどりの衣服を重ねる「かさね」と呼ばれる技法によって、季節ごとの美意識を表現していました。この「かさね」は、色の組み合わせによって無限のバリエーションがあり、それぞれに独自の名前がつけられていました。たとえば、「うぐいす」は春の初めに合わせた淡い緑色の重ねを指し、「もみじ」は秋の紅葉をイメージした赤や黄色の重ねを意味します。これらの衣服は、一つ一つが精巧に作られ、その組み合わせによって季節の変化や自然の美しさを表現していたのです。

⑷ 十二単衣(唐衣)

大和絵

十二単衣は、平安時代の貴族女性が着用した、最も格式の高い衣装です。十二単は文字通り12枚の衣服を重ねて着用するもので、その豪華さと色彩の美しさは、平安時代の美の象徴とされています。これらの衣服は、季節や行事に応じて色の組み合わせが選ばれ、それぞれに意味が込められていました。たとえば、春には桜をイメージした淡いピンクや緑を基調とした重ねが選ばれ、秋には紅葉を思わせる暖色系の重ねが好まれました。十二単は、その重厚感と豊かな色彩によって、平安時代の女性の美意識を象徴する衣装となっていたのです。

平安時代の女性のおしゃれ お化粧編

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⑴ 美の基準:「白い肌」

平安時代の美の基準は「白い肌」であり、これを実現するために白粉が広く使用されていました。白粉は、米や鉛を原料として作られ、肌を白く明るく見せる役割を果たしていました。この白い肌は、貴族階級の女性たちにとって、美の最大の象徴であり、白粉を用いることは美しさを追求する上で欠かせない習慣でした。白粉を塗ることによって、肌は一層滑らかで清楚な印象を与え、当時の美の理想を具現化していたのです。

⑵ 眉毛の形状:丸い眉

紫式部

平安時代の女性の眉毛は、丸く整えられるのが特徴でした。この丸い眉は、「ひそめ」とも呼ばれ、顔の中央上部に描かれることが一般的でした。

この独特な眉毛のスタイルは、当時の美の規範を象徴しており、自然な眉毛を剃り落とした後、炭や墨で丸い形に描かれていました。眉毛の形状は、時代によって異なる特徴があり、平安時代の丸い眉は、その時代特有の美意識を反映している重要な要素でした。この眉毛のスタイルは、女性の表情をより穏やかで優美なものにし、平安時代の女性の顔立ちを一層際立たせる効果がありました。

⑶ 化粧の基本色:白、赤、黒

平安

平安時代の化粧は、白粉を基調とし、紅(べに)と黒(眉墨・お歯黒)を用いることで、顔の印象を大きく変える手段でした。白粉は肌を白く美しく見せ、紅は唇や頬に赤みを与えることで、健康的で華やかな印象を与えていました。また、お歯黒は成人女性の儀式的な化粧の一部であり、これによって成熟した美しさが表現されていました。この三色のバランスによって、平安時代の女性は自身の美しさを演出し、社会的な地位や個性を表現していたのです。

⑷ 香りの重要性

平安時代の女性は香りにも非常に気を配っていました。香水や香木などを用いて、自身の香りを独自に作り上げることが流行していました。香りは、その人の品格や趣味を表す手段として重視され、様々な場面で用いられていました。たとえば、恋文を送る際には、特定の香りを纏わせることで、送り主の感情やメッセージを伝える手段としても利用されていました。香りは、視覚や聴覚に次いで、人々の感覚を刺激し、平安時代の美意識の一環として重要な役割を果たしていたのです。

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平安時代の女性のおしゃれ 髪型編

⑴ 大垂髪:主流の髪型

平安
平安

平安時代の女性の代表的な髪型は、長く垂らした「大垂髪」でした。この髪型は、長く伸ばされた髪を地面に届くほどに垂らすスタイルで、女性の美しさや優雅さを表現する重要な要素でした。この大垂髪は、手入れが非常に大変であり、長く美しい髪を保つためには日常的に丁寧なケアが必要でした。髪は社会的な地位や美の象徴として扱われ、長く健康的な髪は女性の魅力を大いに高めるものとされていました。

⑵ 姫カットの原点

通い婚
平安

現代の姫カットは、平安時代の髪型にその原点を持っています。このスタイルは、顔周りの髪を短く整え、後ろの髪を長く伸ばすという特徴があり、現代の姫カットのスタイルと共通しています。平安時代の女性は、この髪型を通じて自らの美意識や流行を表現しており、さまざまなアレンジを加えることで、個性や流行を追求していました。

⑶ 髪を守る「ゆする」

「ゆする」は、平安時代の女性が髪を美しく保つために用いた自然な髪のケア方法です。これは米のとぎ汁を利用したもので、髪に栄養を与えて健康的に保つ効果がありました。この「ゆする」は、髪を洗うことで自然なツヤと潤いを与えると同時に、髪のダメージを防ぐ効果もあり、当時の女性にとって重要なヘアケア方法でした。

⑷ ヘアケアの方法

平安時代の女性のヘアケアには、自然素材を用いた様々な方法がありました。たとえば、椿油を髪に塗ることでツヤを出す、海藻などを使った自然なトリートメントを施すなど、健康的な髪を保つための工夫がされていました。これらのヘアケアは、日々の生活の中で重要な役割を果たし、女性の美しさを支える基盤となっていたのです。

平安時代の女性の食べ物、趣味、生活環境

食事
食事

⑴ 食事の習慣:1日2回、一汁二菜

平安時代の食事習慣は現代と大きく異なり、主に1日2回の食事が基本でした。一汁二菜というシンプルな構成が一般的で、米を中心とした食文化が根付いていました。この時代の食事は、素材の味を生かしたシンプルな調理法が主流で、味付けも塩、醤油、酢、味噌といった基本的な調味料に限られていました。食事は、健康や季節感を反映する大切な文化的側面を持ち、当時の人々の生活様式や価値観を反映していたのです。

⑵ お米の調理法の多様化

平安時代は、お米の調理法が多様化し始めた時代でもあります。ご飯を中心に、お粥や餅など、さまざまな米料理が楽しまれていました。これらの料理は、当時の人々の主食であり、日常生活において重要な位置を占めていました。また、米を用いた料理は、祭祀や行事の際の供物としても用いられ、その文化的意味合いは非常に大きかったのです。

⑶ 策餅 

平安時代、貴族たちは「索餅(さくへいまたはむぎなわ)」という、うどんのような食品を楽しんでいました。これは、奈良時代から平安初期にかけて、粉食が普及していた大陸諸国との交易が活発化したことで日本に伝来しました。

索餅の正体については諸説あり、茹でて食したとも、縄状にした小麦粉の生地を揚げたお菓子であったとも言われています。食べ方としては、生姜やミョウガを添えて二杯酢のような調味料で和えたり、胡麻油や糖、塩などを加えたりと、現代のまぜそばや冷やし中華を思わせる食べ方もあったそうです。また、索餅は当初は貴族のみが食べていましたが、市場でも売られるようになり庶民の間にも広がりました。

⑷ 策麺

平安時代、貴族たちは「索麺」を楽しんでいました。これは、うどんのような食品で、奈良時代から平安初期にかけて、大陸諸国から日本に伝わりました。

索麺の食べ方は現代のまぜそばや冷やし中華を思わせるもので、生姜やミョウガを添えて二杯酢のような調味料で和えたり、胡麻油や糖、塩などを加えたりしていました。

また、索麺は当初は貴族のみが食べていましたが、市場でも売られるようになり庶民の間にも広がりました。そして、平安時代から鎌倉時代にかけて、「索麺」の語が記されている文献が散見できます。索麺は索餅から発展したものと考えられ、その後さらに発展して現在の「素麺(そうめん)」になったとされています。

策餅
素麺

⑸ 女性のたしなみ

紫式部

平安時代の女性は、詩歌や書、音楽などの多彩なたしなみを身につけていました。これらは、教養として非常に重視され、特に貴族階級の女性にとっては必須のスキルでした。和歌や古典の学習は、自らの感性を磨き、社会的地位を示す手段でもありました。また、琴や笛などの楽器演奏も人気があり、音楽を通じて感情を表現することが美とされていました。

平安
平安

⑹ 顔を隠すマナー?

平安
平安

平安時代の女性は、顔を隠すことが一種のマナーとされていました。扇や頭巾などを用いて顔を隠す風習があり、これは美的感覚だけでなく、礼儀や控えめな姿勢を表す文化的表現でもありました。顔を隠す行為は、神秘的な魅力を演出すると同時に、相手に対する敬意を示す意味合いも持っていました。

平安時代、貴族たちは顔を隠すことが一種のマナーでした。特に女性は、他人に顔を見せないことが一般的でした。他人に会うときは、御簾の後ろに控えていたり、扇で顔を隠したりしていました。これは、当時の社会的な地位や身分による決まりに従ったものでした。

また、部屋では几帳や屏風で訪問客と自分とを遮り、その奥でさらに扇を使って顔を隠すほどに徹底されていたと言います。このような顔を隠すマナーは、平安時代の社会的な地位や身分による決まりに従ったものでした。

さらに、平安時代の貴族の男性は、部屋の中でも野外でも、頭髪を露にするのはとても恥ずかしいことだったのです。どこまで恥ずかしいかというと、ふんどし姿になるのとどっちが嫌か?というくらい。このように、ビジネスなどの公的な場では冠を、私的な場では烏帽子を被るのが男性のマナーでした。

⑺ お風呂事情

平安時代のお風呂事情は、現代とは異なり、主に貴族層に限られた特権でした。温泉や家庭での湯船につかる習慣はあったものの、広く普及していたわけではありませんでした。湯治や健康のための入浴が行われていたとされ、入浴文化は健康や清潔を保つための重要な習慣でした。

まず、平安時代のお風呂といえば「蒸し風呂」が主流でした。これは現代のサウナのようなもので、部屋の中に石を置き、その石に水をかけて蒸気を発生させていました。この蒸し風呂に入る時は、裸ではなく「湯帷子(ゆかたびら)」という単衣を着て、竹でできたすのこの上に敷物を敷いて座ったそうです。これは、現代のサウナにタオルを巻いて入る様子を思い浮かべるとわかりやすいかもしれません。

次に、「湯殿」という部屋についてです。ここには小さな浴槽のようなものがありました。大きさは2つあって、小さい物は深さがたったの24cmほど。沸かしたお湯を入れて手拭いなどを濡らして体を拭いたり、お湯を汲んで体にかけたりしたそうです。これは、現代の洗面所で手や顔を洗う様子に似ているかもしれません。

さらに、平安時代の貴族は生活を占いで決めていることが多く、お風呂も習慣でなく、吉という日のみ、蒸し風呂に入っていたそうです。体を流すことは「禊(みそぎ)」と捉えられていて、体を清めるためであり、体を清潔にするためではありませんでした。これは、現代のお風呂が日々の汚れを落とすためのものであるのに対し、平安時代のお風呂は精神的な清浄を目指すものだったという違いがあります。

そして、平安貴族は体臭が強かったとされていますが、その臭いをごまかすためにお香を焚いて香りを充満させたのが最も一般的な活用方法でした。これは、現代の香水やデオドラントに似ているかもしれません。以上の情報から、平安時代のお風呂事情は現代とは大きく異なります。

⑻ トイレ事情

平安時代のトイレ事情も、現代とは異なる面が多くありました。簡易的な施設が主流で、衛生面では現代と比較して非常に基本的なレベルでした。

貴族の屋敷では、別途トイレが設けられていることが多く、一般の人々は共用の施設を利用していました。トイレは日常生活の中でのプライバシーの保護や衛生面において重要な役割を果たしていたのです。

平安時代、貴族たちはトイレタイムもスタイリッシュにこなしていました。その秘密兵器が「樋箱」。これは現代でいう「おまる」のようなもので、部屋の中で使われました。樋箱は木製の箱で、中には砂や灰が敷かれていました。用を足すときは、この上にまたがって行います。そして、用が終わると、「樋洗(ひすまし)」というトイレ専門のお掃除係が片づけに来ます。中身がいっぱいになると、川や排泄物の捨て場に運び出されました。

また、地面に穴を掘った汲み取り式のトイレや、水路を利用した水洗トイレも存在していました。しかし、貴族の女性は人前で顔を見せることが許されなかったため、部屋の中で用を足すことが一般的でした。そのため、樋箱が主に使用されていたと考えられます。

さらに、平安時代の人々は用を足した後、紙を使うようになりました。しかし、紙は高価で貴重品だったため、庶民は木のヘラを使用していたと考えられます。

平安時代のトイレ事情は現代とは大きく異なり、その生活習慣を垣間見ることができます。

まとめ

⑴ 平安時代とは

平安時代は、日本の歴史上、非常に重要な文化的発展期でした。この時代には、美術、文学、そして日本特有の美意識が花開きました。

平安時代の文化やライフスタイルは、現代の日本文化にも大きな影響を与えており、特に文学や衣装、生活様式などが今日でも受け継がれています。

⑵ 平安時代から伝わるもの

この時代からは、特に文学作品や美術品、そして独特の生活様式や美意識が現代にも受け継がれています。

『源氏物語』などの文学作品は、平安時代の人々の生活や思想を今に伝える貴重な資料であり、日本文化の基盤を形成しています。

また、服装や化粧、髪型などの美意識も、現代の日本のファッションや美容に影響を与え続けています。

⑶ 流行ったもの

平安時代には、衣装や化粧、髪型などに特有の流行がありました。これらは当時の貴族社会の中で特に重要視され、文化の象徴となっていました。

例えば、十二単や重ねの衣装は、その時々の流行や季節を反映しており、豊かな色使いやデザインが特徴です。また、化粧や髪型においても、白粉を用いた白い肌や丸い眉、大垂髪などが流行しており、これらは当時の美の理想を形作っていました。

これらの流行は、当時の社会の価値観や美意識を表す重要な要素であり、平安時代の文化を理解する上で欠かせない部分です。

⑷ 平安時代が終わる理由

平安時代が終わる主な理由は、政治構造の変化と武士階級の台頭にあります。中央集権的な政治体制が次第に弱まり、地方の豪族や武士たちの力が増大していきました。

これにより、従来の貴族中心の政治や文化から、武士が主導する時代へと移行していきました。また、内政の混乱や経済的な変動も、時代の変化を加速させる要因となりました。

⑸ 平安時代:簡単な概要

平安時代は、日本の歴史の中で、文化的な発展が特徴的な時代でした。この時代には、独自の美意識や生活様式が花開き、多くの文化的遺産が生み出されました。特に文学や美術はこの時代の大きな成果であり、後世に大きな影響を与えています。平安時代は、日本の歴史において非常に重要な時期であり、その文化や伝統は今日の日本にも色濃く残っています。

この記事では、紫式部や清少納言に時代を通して平安時代中期の衣装、お化粧、髪型、おしゃれ、生活事情について詳細に掘り下げました。平安時代の美意識は、単なる外見の美しさだけでなく、生活様式や文化に深く根ざしたものであることがわかります。それは今日の私たちにとっても、多くの示唆を与えてくれるものです。この時代の美意識や文化を理解することは、日本文化の深い理解につながり、現代における美の追求にも役立つと思います。

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