平安時代に活躍した女流作家といえば、紫式部や清少納言が有名ですよね。紫式部は『源氏物語』で世界最古の小説を書いたと言われていますが、清少納言は『枕草子』で日本最初の随筆を書いたと言われています。
清少納言は、自分の好きなものや嫌いなもの、美しいものやおかしいものなどを「をかし」という言葉で表現しています。この「をかし」は、清少納言独自のセンスや視点を示す言葉で、今も彼女の商標登録です。
では、この清少納言という女性はどんな人だったのでしょうか?
彼女はどんな恋愛をしたのでしょうか?
彼女はどんな晩年を過ごしたのでしょうか?
今回は、平安時代の炎上系歌人として知られる清少納言の生涯と清少納言の魅力に注力します。
歌人の家に生まれた中流貴族の芸術肌の娘
清少納言は966年ごろ、貴族で有名歌人でもあった清原元輔の娘として京都に生まれました 。清原元輔は『古今和歌集』の代表的歌人である清原深養父の孫であり、一条天皇の信任を得て和歌の編集や国司などの要職を務めました。清少納言は小さいころから父の指導を受け、歌の作り方や漢学をどんどん吸収して育ち、 和歌や漢詩など豊かな教養を身に着けた知識ある才女に成長しました 。
中宮定子のもとへ出仕 明るく陽気なマシンガントークで信頼を築く
清少納言は20歳代後半の頃、その教養をかわれて一条天皇の中宮定子の女房として出仕しました 。定子は一条天皇の正妻であり、美しく賢く教養豊かな女性でした。清少納言は定子に気に入られて恩寵を受け、宮中で才媛ぶりを発揮しました 。彼女は定子と主従関係を超えた信頼関係を築き、定子サロンの代表的女房となります 。
春はあけぼのだけじゃない「枕草子」商標登録の「いとおかし」連発!
清少納言は宿下がりしていた時に、定子から与えられた紙に日々思ったことや宮中での生活を書き留めるようになりました 。それが随筆『枕草子』です。『枕草子』は日本で初めて書かれた随筆ともいわれており、ひらがなを中心にした和文で書かれ、短編が多く約300の段で構成されています 。
その内容は清少納言が日々思ったことや観察、見聞したこと、そして定子に仕えた宮廷での日々の様子をつづっています 。『枕草子』を貫くのは清少納言が面白いもの、美しいもの、興味のあるものなどを趣があると表現した「をかし」の精神です 。清少納言は自分の感性やセンスで物事を切り取り、軽妙な文体で描き出しています 。
超個性的「関西のおばちゃん風」キャラクターで宮中の不動の人気者に!
清少納言は博学で気が強く、自分の意見や感想を率直に述べることが多かったようです。そのため、周囲からは批判や嫉妬も受けましたが、一方でそのキャラクターが受けて宮中の人気者にもなりました。
特に、清少納言は漢詩にも通じており、宮中で漢詩を披露することがありました。当時の女性が漢詩を作ることは珍しく、その才能に一条天皇や貴族たちも驚きました。清少納言は宮中での人気者でした。彼女は自分の意見や感情をはっきりと言うことができる性格でした。
彼女は自分が面白いと思うものや美しいと思うものに対して「をかし」という言葉で表現しましたが、これは彼女独自の感性やセンスを示すものでした。清少納言は自分の流儀を貫く女性でしたが、それゆえに周囲から批判や妬みを受けることもありました
彼女は歌や漢詩などの知識をひけらかしていると批判されたこともありましたが、それがかえって彼女のキャラクターとして受け入れられました。彼女は貴族や中宮、さらに天皇からも賞賛を得ました。彼女は自分の才能を存分に発揮することができる最高の舞台でした。
恋多き炎上系歌人、オープンマインド、恋のシークレット編
清少納言は歌人としても活躍しましたが、その歌は恋愛や政治に関する辛辣な内容が多く、当時の貴族社会に波紋を広げたこともあります。清少納言は宮中で複数の男性と恋愛関係にあったといわれており、その相手は藤原斉信や源経房、藤原行成、源宣方、藤原実方など多岐にわたります。
彼女は自分の恋心や嫉妬を歌にして表現しましたが、それが相手やその妻や恋人に知られてトラブルになることもありました。例えば、藤原行成との贈答が知られた『枕草子』の歌「夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」は、百人一首にも採られていますが、この歌は清少納言が行成と密会するために逢坂の関を通ろうとしたときに作ったものです。この歌が行成の妻や他の女房たちに知られて非難されたことが『枕草子』に記されています。
清少納言は恋愛にも積極的でした。彼女は生涯に2度結婚しましたが、その他にも多くの恋愛関係を持ちました 。彼女はその恋愛を歌に詠んだり、『枕草子』に書き残したりしました 。彼女の歌は恋愛や政治などに関する辛辣な内容で、時には相手を批判したり、自分の感情をぶちまけたりすることもありました 。彼女は恋愛においても自分の思いを素直に表現することができるオープンマインドな女性でした 。
イケメン大好き、炎上系歌人、ロマンスな日々に続くエピローグ
清少納言は、その才能と個性で宮中や貴族社会に大きな影響を与えました。彼女は一条天皇の中宮定子に仕える女房として、豊かな教養と鋭い観察力を発揮し、随筆『枕草子』を書き残しました。
また、歌人としても中古三十六歌仙や女房三十六歌仙の一人に数えられ、多くの歌を詠みました。しかし、彼女の人生は決して順風満帆ではありません。。恋愛や政争に巻き込まれたり、定子の死や宮中を去った後の没落など、様々な苦難に直面しました。そんな清少納言の生涯とその魅力について、以下の段落で詳しく説明します。
ロマンスな日々①(藤原斉信)頭中将
清少納言が最初に恋した相手は、藤原斉信という貴族でした。彼は一条天皇の従兄弟であり、頭中将という高い官位にありました。彼は清少納言よりも20歳ほど年上で、美貌と教養を兼ね備えた魅力的な男性でした。
清少納言は彼に一目惚れし、和歌や手紙を通じて想いを伝えましたが、彼は既婚者であり、清少納言の気持ちに応えることはありませんでした。しかし、彼は清少納言の才能を認めており、友人として親切に接しました。清少納言は彼に対する恋心を断ち切ることができず、彼が亡くなるまで慕い続けました 。
ロマンスな日々②(源経房)左中将
清少納言は彼に惹かれ、和歌や手紙を通じて想いを伝えましたが、彼も既婚者であり、清少納言の気持ちに応えることはありませんでした。しかし、彼も清少納言の才能を認めており、友人として親切に接しました。清少納言は彼に対する恋心を断ち切ることができず、彼が亡くなるまで慕い続けました 。
清少納言が次に恋した相手は、源経房という貴族でした。彼は一条天皇の側近であり、左中将という高い官位にありました。彼は清少納言よりも10歳ほど年上で、武勇と教養を兼ね備えた魅力的な男性でした。
ロマンスな日々③(藤原行成)
清少納言が最も深く恋した相手は、藤原行成という貴族でした。彼は一条天皇の側近であり、右大臣という最高の官位に至りました。彼は清少納言よりも15歳ほど年上で、美貌と教養を兼ね備えた魅力的な男性でした。
清少納言は彼に熱烈に想いを寄せ、和歌や手紙を通じて想いを伝えました。彼も清少納言の才能を認めており、恋人として親密に接しました。しかし、彼は既婚者で清少納言と正式に結婚することはありませんでした。
ロマンスな日々④(源宣方)源中将
清少納言が最後に恋した相手は、源宣方という貴族でした。彼は一条天皇の従兄弟であり、源中将という高い官位にありました。彼は清少納言よりも10歳ほど年下で、美貌と教養を兼ね備えた魅力的な男性でした。
清少納言は彼に好意を持ち、和歌や手紙を通じて想いを伝えましたが、彼は既婚者であり、清少納言の気持ちに応えることはありませんでした。しかし、彼も清少納言の才能を認めており、友人として親切に接しました。
ロマンスな日々⑤(藤原実方)
清少納言が恋した相手の中で唯一結婚した相手は、藤原実方という貴族でした。彼は一条天皇の側近であり、右大臣という最高の官位に至りました。彼は清少納言よりも20歳ほど年上で、美貌と教養を兼ね備えた魅力的な男性でした。清少納言は彼に惹かれ、和歌や手紙を通じて想いを伝えました。
彼も清少納言の才能を認めており、恋人として親密に接しました。しかし、彼も既婚者であり、清少納言と正式に結婚することはありませんでした。
元旦那 橘則光との関係
清少納言が最初に結婚した相手は、橘則光という貴族でした。清少納言は10代半ばで彼と結婚し、一子則長をもうけましたが、性格の不一致からか離婚しました。しかし、彼らは離婚後も友人として親しく交流しました 。
彼は一条天皇の従兄弟であり、陸奥守という高い官位にありました。彼は清少納言よりも1歳年下で、武勇と教養を兼ね備えた魅力的な男性でした。
則光は一条天皇の信任が厚く、右大臣(うだいじん)まで昇進しました。また、則光は藤原道長の政敵であり、道長が擁立した後一条天皇や白河天皇に対抗しました。
このため、清少納言は則光の元妻であることから政争に巻き込まれることもあり、それが清少納言が宮中を離れる決心した動機であったとの見解もあります。
政治に関して辛辣、自由な精神を大事にする。さようなら宮廷生活
清少納言は30歳前後のころ、その教養を買われて一条天皇の中宮(皇后)定子に仕えることになりました。定子は清少納言よりも5歳年下でしたが、ふたりは主従関係を超えた信頼関係を築きました。清少納言は定子から与えられた紙に日々思ったことや宮中での生活を書き留めるようになり、それが『枕草子』の原型となりました。
しかし、宮中勤めは順風満帆ではありませんでした。清少納言は自慢げに漢詩などを披露することがあったため、他の女房から嫌われたり、同じ一条天皇の正妻である彰子から妬まれたりしました。
また、定子が一条天皇と対立する摂関家(藤原道長)と政争に巻き込まれることもありました。1000年ごろ、定子が若くして亡くなると、清少納言は宮中を去りました。彼女は定子への想いや宮中での思い出を『枕草子』に綴りました。
1000年前の炎上系歌人、清少納言はいずこに
宮中を去った後の清少納言の動向についてはよくわかっていません。彼女は再婚相手である藤原棟世とともに地方に下ったこともあったようですが、晩年は京都に戻ったとされています。彼女の没年や没地は不明ですが、四国に清少納言の墓があるという伝説があります。
また、鎌倉時代に書かれた『古事談』などには、清少納言が出家して「鬼形の女法師」となり、兄が源頼親に討たれた際に陰部を示して女性であることを証明したという話があります。これらの話は事実かどうかはわかりませんが、清少納言の人生は死後も波乱に満ちていたようです。