こんにちは!歴史好きのブロガー、simahikoです。今回は、小田原攻めで有名な石垣山城について、あなたの知らない衝撃の事実をお伝えします。石垣山城は、豊臣秀吉が小田原城を落とすために築いた城で、一夜にして完成したと言われています。しかし、実はこの話には大きな疑問があります。石垣山城は本当に一夜城だったのでしょうか?それとも、秀吉の策略だったのでしょうか?この記事では、石垣山城の歴史や構造、そして最新の考古学的調査から、その謎に迫っていきます。
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石垣山城とは
石垣山城は、関東地方で最初に築かれた本格的な近世城郭です。高さ10メートル以上の石垣や天守を備えた堂々たる姿は、今でも見る人を圧倒します。この城は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が北条氏政を攻めるために築いたもので、小田原城から約5キロメートル離れた場所にあります。秀吉はこの城を拠点として小田原城を包囲し、3ヶ月後に北条氏を滅ぼしました。この時、秀吉は石垣山城から小田原城へ向けて「一夜にして立派な城ができあがった」という手紙を送りました。これが「一夜城」という言葉の由来です。
一夜城伝説の疑問点
しかし、この一夜城伝説には常識的に考えて疑問点が多くあります。まず、石垣山城の現地に行ってみると、小田原城と相模湾がよく見えます。逆に言えば、小田原城からも石垣山がよく見えるはずです。そうなると、豊臣軍が大規模な築城工事をしている様子は、北条側にも見えていたはずです。ではなぜ北条側は何も対策をしなかったのでしょうか?また、高さ10メートル以上の石垣や天守を築くには、まず樹木の伐採や土地の整地が必要です。これらの作業も時間と人員がかかります。80日間という期間でこれらの工事を完了させることは可能だったのでしょうか?
不都合な真実1
さらに不都合な真実があります。それは、石垣山城の天守台付近で見つかった瓦です。これらの瓦には天正19年(1591年)という銘が刻まれています。つまり、小田原攻めの翌年になってから葺かれたことになります。しかも、この瓦は上方から来た瓦職人が東海道筋の城に順に使ったもので、石垣山城にもその流れで葺かれたと考えられます。これは、石垣山城の天守が小田原攻めの時点では未完成だったか、あるいは板葺きで仮に完成していたということを意味します。そうなると、秀吉が一夜にして完成したという手紙は、嘘だったということになります。
不都合な真実2
もう一つの不都合な真実は、石垣山城の天守が小田原城に見せつけるにふさわしい場所に建っていないということです。石垣山城の本丸で小田原城がよく見えるのは北東隅のあたりですが、天守台はその反対側の南西隅にあります。つまり、石垣山城の天守は小田原城から見えにくい位置にあるのです。これは、石垣山城が権力を見せつけるための城ではなく、実際に戦闘に使うための城だったということを示唆しています。実際、石垣山城は小田原城への攻撃拠点として機能しました。秀吉はこの城から大砲や鉄砲を撃ち込んだり、兵士や物資を送り込んだりしました。
まとめ
以上のことから、石垣山城は一夜にして完成したという伝説は事実ではなく、秀吉の策略だったと考えられます。秀吉はこの伝説を作ることで、自分の権力や能力を誇示しようとしたのでしょう。しかし、それは表向きの話であり、裏ではしっかりと戦闘用の城を築いていたのです。石垣山城は、秀吉の知略と軍略の両面を見ることができる興味深い城です。ぜひ一度訪れてみてください!