どうする家康37話、歴史的背景と小田原攻め、キモイ厚塗り茶々登場

北川景子綺麗
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はじめに

このブログでは、大河ドラマ「どうする家康」の37話「さらば三河軍団」について、あらすじと歴史的な背景をお伝えします。37話では、「小田原攻め」と「関東移封」が描かれています。

茶々(北川景子)は秀吉(ムロツヨシ)の子「鶴松」を宿す

37話では、茶々(北川景子)が秀吉(ムロツヨシ)の子「鶴松」を出産します。我が子の誕生に勢いづいた秀吉は、関東の雄である北条氏への攻撃を決行します。

家康は、茶々との間にできた秀吉の息子・鶴松を見て驚く。秀吉は、自分の子供が生まれたことで気分が高揚し、北条氏を滅ぼそうとする。

小田原攻略戦

北条氏が降伏すれば、その土地を家康に与えると約束するが、それは家康にとっても苦渋の決断だった。なぜなら、家康は故郷の三河を捨てて出ることになるからだ。

家康は、家臣たちに本心を話せずに、秀吉の命令に従って先陣を切る。秀吉は、20万の大軍を率いて小田原城を包囲するが、北条氏政は頑として抵抗する。氏政は、関東の覇者としての誇りを捨てられなかった…。

家康(松潤)は和平交渉のために出張していたが、秀吉は彼に先陣を命じ、勝利すれば北条氏の領地をすべて与えると約束しました。しかし、これは家康の故郷である三河を離れることを意味します。

この命令は「領地替え・国替え」と呼ばれる転封であり、秀吉(ムロツヨシ)は家康(松潤)を封じ込めるためのものと言われています。家康(松潤)はこの事情を家臣たちに打ち明けず、出陣を命じました。

秀吉(ムロツヨシ)は20万人の大軍と共に小田原を包囲する一方、家康は氏政(駿河太郎)に降伏を促しますが、彼は応じようとしません。氏政(駿河太郎)には関東の雄としてのプライドがありました。では、まず小田原攻めとはどのような出来事だったのでしょうか?

豊臣秀吉は既に四国と九州を手中に収めたていましたが、まだ従わない大名が存在しました。その中でも、北条氏が関東の小田原城を中心に権力を保持していた。1590年、秀吉は北条氏に対して攻撃を仕掛けることを決意し、北条からの上洛を要求したが応じなかった。

同年2月、徳川家康(松平)は駿府城から出陣した。当時、家康は秀吉から北条とのつながりを疑われていたが、秀吉は家康の裏切りを懸念し、あえて家康に先陣を任せた。その後、秀吉率いる主力部隊と配下の大名たちは小田原に向けて進撃を開始した。

小田原の海には、毛利輝元や九鬼一族を筆頭にした強力な水軍部隊が待ち構えていた。陸と海を合わせた兵力は15万人に達し、小田原城は堅固な要塞であり、歴史上の名将である上杉謙信や武田信玄ですら制圧できない無敵の名城です。

北条氏は城の強化と食料の備蓄を行い、田畑、河川、集落までも城内に完備した難攻不落の要塞だった。秀吉は直接的な突撃では効果が薄いと判断し、周辺の北条氏の根城を制圧し、北条氏を本丸の小田原城へ押し込む作戦を発動した。これにより小田原城を孤立させる戦略を採用したが、これまでは古典的な戦術だった。

しかし、秀吉は独自の策を実行に移した。それはわずか70日ほどで、小田原城の眼下にある石垣山に新しい城を築き上げることだった。

この戦略の目的は「豊穣を小田原城内に封じ込め、その周辺を掌握する」という長期的な計略であった。この大胆な戦略は、ほとんどの大名が秀吉のもとに集まっていた状況下で可能となった。関白の地位と圧倒的な軍事力を持つ秀吉には、もはや敵はいなかった。他の大名たちは秀吉の前に屈した。

石垣山城では、秀吉や淀殿、他の大名とその家族が招かれ、伝統的な文化活動や茶会が行われたと言われている。秀吉が建てた石垣山城は「一夜城」と呼ばれており、正確には70日で完成したが、完成時に周囲の木を伐採し、まるで一夜で建設されたかのように見せかけました。秀吉のパフォーマンスの集大成です。

小田原城の出現には、想定外のものでしたが、それによって小田原城の兵士の士気は低下したと言われています。1590年5月、奥州の雄「伊達政宗」が秀吉の傘下に入り、忠誠を誓いました。政宗はこの激しい小田原攻めを見て、秀吉には勝てないと考えていたと伝えられています。

そのため、政宗は秀吉に立ち向かうことはできず、白装束を身に纏い、命を捧げる覚悟で秀吉に許しを請いました。その結果、政宗の命は助けられ、伊達家の領地である72万石が保証されました。政宗の予想外の行動は、北条軍の士気を大いに低下させたと推測されます。

その後、7月5日に北条氏直が城から出てきて、降伏を申し出ました。これにより、北条家の関東統治は終わりを迎えました。北条氏直は、部下たちの命を救うために自らの命を絶つ提案をしましたが、高潔な姿勢と家康との関係を考慮し、秀吉は氏直の命を助けました。

一方で、前当主の北条氏政とその重臣たちは戦の責任を取り、切腹しました。北条家が支配していた領土の大部分は家康に譲られましたが、家康は小田原城を選ばずに他の拠点を得ることにしました。最終的に、北条家と伊達家の従属によって、秀吉の日本統一の野望が実現しました。

家康の「関東移封」

次に、家康の「関東移封」について説明します。移封とは、大名を他の領地に移すことを指し、国替えとも呼ばれます。家康は敗れた北条から土地を手に入れることになりました。この土地には相模、伊豆、武蔵、上野、下野の一部が含まれ、総計250万石の規模です。

しかし、これまでの領土である駿府、遠江、三河、甲斐、信濃の5つの地域は手放すことになり、家康の気持ちは明るくなかったと推測されます。それでも、秀吉の決定に逆らうことは不可能でした。

反対の意思を示せば、領地をすべて奪われていたかもしれません。実際に、織田信雄(信長の次男)が伊勢への移封を拒んだところ、信雄は失脚し、その地位は秀吉の部下に移されました。

家康は先祖から代々受け継いだ土地を寄進と共に去ることになりましたが、これは反乱のリスクを軽減することにもなります。もちろん、不平を訴える家臣も少なくありませんでした。

「秀吉の命に逆らえない。今は耐える時だ」と、家臣たちは秀吉に責任を押し付けていたかもしれません。家康が江戸城に入城したのは8月1日です。

この日は稲の成熟する時期を意味する「八朔」と言われており、縁起の良い日とされています。入城後、家康はすぐに関東地方の城に家臣を配置し、また板倉勝重を江戸町奉行に指名しました。

そして、小名木川の回収を始めとする城下町の開発も開始しました。これは、後のメガロポリス「東京」の始まりとも言えます。元禄元年(1502年)に始まる文禄・慶長の役で、続く文禄2年(1593年)には明からの使節団の換待を秀吉に命令されたため、江戸を離れていました。

家康が再び江戸へと戻ることができたのは、実に1年9か月ぶりでした。しかし、その後、文禄4年(1595年)になると、再び上洛を求められました。これは、秀吉の甥で関白の秀次が陰謀の疑いで自害させられる事態が生じたためでした。

大名たちの動揺を鎮めるために秀吉は家康の上洛を要請し、その忠実さを再認識したかったのかもしれません。秀吉は家康を元の領地から江戸へ移譲させたことを常に気にかけていたのかもしれません。しかし、そのころに家康は「徳川家の本拠地は江戸とする」という考えを固めていました。

秀吉堕ちる

事実、家康は江戸の市長として発展のために努力を惜しみませんでした。1598年、秀吉の体調は次第に悪化し、たびたび病に倒れるようになりました。秀吉が最も心配していたのは、一人息子の秀頼が権力を保持できるかどうかでした。この問題に対処するため、秀吉は大名たちに従うべき「御掟」と「御掟追加」を発表し、大名たちを従わせました。その中には大名間の私的な縁組を禁止するなどの規則も含まれていました。

この掟は、徳川家康、前田利家、毛利輝元、小早川隆景、宇喜多秀家の5大名により承認され、後には「5大老」として知られるようになりました。この時点で、上杉家は含まれておらず、後に家康と敵対することとなります。秀吉の死後は、秀頼が成人するまで5大老の合議制により政権を安定させることが求められました。そして家康らに死後の計画を託して、8月18日にこの世を去りました。この時、秀頼はわずか6才でした。

その後の家康は、江戸を基盤としながらも、主に伏見(京都)を拠点にしました。最終的には家康は忠実に江戸の繁栄のために尽力していきます。

まとめ

さて、全48話と発表された「どうする家康」は残り12話となりました。今後は石田三成との死闘、関ヶ原、夏の陣、冬の陣、真田との死闘、武家諸法度まで一気にドラマが加速してきます。最後まで一緒に楽しみましょう。今日はありがとうございました。

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